【第538回】 手先をのばす

合気道は形稽古を通して技を錬磨して精進していき、誰もが下手から上手になっていく。上手が下手を見れば、どのぐらいのレベルにあるのか、どこに問題があるのか、どのようにすれば上手になるのかなど分かるものであるが、自分本人のことは中々分からないものである。
その理由にはいろいろあるが、そのひとつに、合気道は試合や勝負がない、相対での形稽古によることにあると考える。要は、上手下手は稽古相手との相対的な比較になってしまいがちなのである。

相手との相対的な比較においての稽古を続けている間は、自分の真のレベル、上手下手は分からないだろう。それが分かるためには、自分自身を比較する絶対的な稽古に進まなければならない。今の自分のレベルを、昨日よりもアップし、明日は今日よりも少しでもアップするように稽古することである。
だが、スポーツのように相手を制すればいいということなら、やるべき事は限られるだろうが、自分に打ち勝っていくには、やることは無限にあるのである。

例えば、合気道は真善美の探究であり、それを身につけていくことであるとも教えられている。従って、美しくなければ、それはまだまだ合気道ではないということになる。技をつかっても、その動きや軌跡、姿勢、体づかいなどなど「美」も追及していかなければならないのである。いつになっても、これでいいということはないわけである。

最近、人の稽古を見ていて気が付いたのであるが、初心者ほど手先が萎えた体づかいをして技を掛けているのが目についた。そこで自分のことをもう一度よく見てみると、あまり違いがなく、手先まで伸びてつかっているとは言えない状態なのである。
そこで、手先を縮めずに伸ばすように、意識して稽古をすることにした。

開祖植芝盛平翁や有川定輝師範の技をつかわれているときの手を、ビデオや写真で再確認すると、いかなる時でも、きれいに伸びきっており、下手がつかっているような萎えた手ではないのを、まずは再確認した。そして手先は常にそのように伸ばしてつかうようにしなければならないと決めた。
しかし、どうすればそのような手になるのかが問題である。

手先まで伸ばしてつかうためには、息づかいが大事なのである。
それは、イクムスビの息づかいに合わせて手をつかえば、手先は伸びたまま技を掛けることができるのである。

イで息をちょっと吐きながら手を出す。次にクで息を入れながら手をつかって技を掛けるわけだが、この息を入れることで手先まで息(これが「気」というものと考える)が通り、手先が伸びるのである。そして息を吐いて、受けの相手を投げたり、抑えるわけであるが、息を吐くと手先は更に伸び、剣のようにしっかりしてくる。

入身投げや四方投げでも手先は伸ばしてつかわれなければならないが、このような技(形)では、その弊害はあまり感じられないので、あまり注意を払わないようである。
手先を伸ばさないために上手く技が掛からない典型的なものが「二教」であろう。相手の手首を胸につけるためにも、手先が萎えたり、縮んだりして、しっかり伸びていなければ、相手の手首は取れないし、決めることもできないのである。通常は、相手が受けをつくってくれたり、協力してくれるので効いていると思ってしまったり、錯覚しているだけである。手先をしっかり伸ばさなければ、二教は取れないし、効かないはずです。勿論、一教も三教も四教も同じで、手先を伸ばしてつかわなければならない。

イクムスビの息づかいで手をつかえば、手先が伸びた手となり、見た目にもいいし、己にも相手にも納得のいく技がつかえるはずである。二教で試し、そして他の技(形)で会得していくのがいいだろう。