【第531回】  教えに従って

初心者にはなかなか分からないと思うが、合気道は難しい。逆に言えば、合気道はこんなものかとか、合気道が分かったとか、できたと思っているうちは、まだまだ初心者ということになる。
合気道は宇宙を対象にしているわけだから、奥が深く、その深さは無限大なのである。開祖は、「合気道においては、天地が修業の場なのです。修業の道にははてしもなく、終わりもない」(「合気神髄」P.182)と云われているのである。

合気道の修業の目標は、宇宙との一体化であり、己自身が宇宙になることと云われる。しかし、このような見えないモノ、遠大で深淵なモノを目指すのは容易ではない。そのためには導きが必要であるし、その導きを信じること、そしてその導きを実行しなければならない。信行である。

その合気道の導きであり、教えであるのは、合気道を創られた開祖植芝盛平翁である。従って、開祖の教えに導かれて、合気道の修業をしていかなければならないことになる。

合気道の修業は、形稽古から始まる。基本技(形)を繰り返し稽古して、合気道の基本の形を覚え、基本的な体をつくるのである。
この合気道の修業の導入部は、誰でも問題なく通過していく。
しかし、これは次の修業の次元への入り口の前なのである。しかも、この次の次元への入り口を見つけるのはなかなか大変で、中に入るのも容易ではないのである。

この入り口を見つけ、入り口から入るためには、開祖の教えに導かれなければならないはずである。自己流ではそれは難しいだろう。
開祖の教えを、『武産合気』や『合気神髄』で勉強して、そして開祖の云われたことを信じ、その教えを技の錬磨の形稽古で試し、宇宙要素を少しずつ取り入れて信行いくのである。

修業とは、あるところまでは導かれるが、それを信じて行わなければならないのである。開祖は、「すべての道はあるところまで先達に導かれますが、それから後は自分で開いてゆくものなのです」といわれている。これも大事な教えである。

つまり、合気道の修業においても、あるところまでは先達である開祖の教えに従わなければならないのである。次に自分で道を開いていくにしろ、あるところまでは先達に導かれなければならないということである。
入り口が見つからないとか、入り口に入れないからと言って、独りよがりや、奇抜な道を行けば、道に外れた外道になるし、邪道ということになってしまう。

開祖は、あるところからの後からは、道は自分で開いていかなければならないとも云われているわけであるが、当分というより、最後まで先達の開祖に導かれなければならないように思える。