【第521回】  摩訶不思議を求めて

合気道は、日本と外国で100数十万の人が稽古されているといわれる。しかし、合気道に入門した動機はそれぞれ違うだろう。いじめに合わないようにとか、喧嘩に勝つために強くなりたい、健康のため、精神修養のため、自分の力や強さを更に増進する、などが一般的だろう。

しかし、私は、誰もが入門のために無意識で共通に持っている動機があると考える。それは、摩訶不思議を体験したり、身につけたいということで、つまり合気道に摩訶不思議を求めて入門し、稽古しているのではないかと思う。例えば、稽古すれば体力のある大男を指一本で抑えたり、投げ飛ばしたりすることが出来るのではないか、と夢みたはずである。私の場合は、稽古すれば気合いで敵を飛ばすことができるのが合気道だと思って、入門したのである。

実際、大先生(開祖)は書物でも紹介されているように、多くの摩訶不思議を示されたといわれている。大の力持ちの大男を天井まで放り投げたり、数人の男でも動かない木を引き抜いたり、などの摩訶不思議な怪力のほか、敵が打ってくるピストルの弾をかわしたり、複数の内弟子の中に居られた開祖が一瞬にして離れた場所にトランスポートされたり、神様たちと交流されたり等々、摩訶不思議にまつわる話はたくさんある。

合気道の門人は、みんなこの摩訶不思議を求めているのではないだろうか。みんながみんな、それを意識してはいないだろうが、無意識で、また潜在的に求めているはずである。

その理由としては、たとえ自分ができなくとも、だれかが示せばその人を称賛するはずだから、潜在的には摩訶不思議をもとめていることになるだろう。開祖の摩訶不思議の話は、合気道修行者の誰もが痛快になり、自分もそうなりたいし、少しでも近づきたいと思わせるものである。

理由の二つ目は、試合も勝負もない合気道に、体力や力があって、勝負巧者の柔道や空手やボクシングなどをやってきた人たちが稽古に来ていたことである。大先生がご健在の頃は、柔道、剣道、相撲、ボクシングなどの一線級の方々が稽古に来られていたが、既に十分な実力を備えていた彼らは、大先生の合気道から、大先生のように摩訶不思議を得ようとされていたのだろうと考える。

更にまた、体力も力もある外国人が合気道を稽古しているが、彼らの多くも摩訶不思議を求めて入門したのではないかと考える。

大先生はわれわれ稽古人たちに、合気道は摩訶不思議でなければならない、とよくいわれていたことを思い出す。大先生は、摩訶不思議とは何か、どうすれば摩訶不思議になれるか、などは常のごとくご説明下さらなかったわけだが、自分なりに考えて一言でいえば、それを見たり体験した者や第三者が、どうして、どのような過程で、そのような結果になったのか、が理解できないということになるだろう。

つまり、現代科学でいう、原因があって結果が出る、という方程式が無効になるわけである。だから、同じことを同じようにやれば同じ結果がでる、ということにはならない。摩訶不思議とは、計算不能 予測不能ということである。

通常は、相手の外見や、相手に触れた時点で、力や技量が予測できるものだ。そして、その予測はほとんど裏切られない。これが、通常の合気道の稽古である。この力・強さは力・体力x稽古時間・密度ということになるだろう。これは物理的力・強さということになり、見える世界のもの、顕界のもの、魄の世界のものである。

摩訶不思議の合気道になるには、この物理的力・強さにプラスα(アルファ)が加わらなければならない。このαは見えないものであり、魂の力(精神、心)、幽界のもののはずである。つまり魂の力・強さということになろう。

物理的な力を土台にして、その上に魂の力を養成していけば、摩訶不思議な合気道になるのではないだろうか。