【第512回】  拍子

合気道では受けの相手に技をかける際に、拍子も大事である。拍子がいいと技がかかりやすく、拍子がまずければ技もかからないものである。拍子が大事であることは、開祖も「声と心と拍子が一致して言魂となり、一つの技となって飛び出すことが肝要」(「合気神髄」)といわれているのである。

剣豪宮本武蔵も、『五輪書』の「兵法の拍子の事」で「物毎につき、拍子は有るものなれども、とりわき兵法の拍子、鍛錬なくては及び難き所也。」といっている。

つまり、何事にも拍子というものがあり、特に兵法(武道、合気道)では拍子が大切であるが、これは鍛錬なしには身につかないものである、ということになろう。

拍子は様々な分野でつかわれていて、いろいろなものがある。典型的なものは、音楽分野での拍子だろう。日本の音楽では「三三七拍子」など、西洋音楽の定義の「拍子」とは異なる使われ方をする。

武蔵がいっている拍子も、合気道の拍子も、音楽分野の拍子とは異なる。音楽の拍子は一節でなん拍(はく)する、というものである。もし合気道の相対稽古で、西欧音楽の3拍子で動くとしたら、ズンチャッチャ、ズンチャッチャとワルツになってしまうだろう。

合気道での拍子の基本は、一技一呼吸(ひとわざ、ひとこきゅう)、一息一投(いっそくいっとう)であると考える。つまり、ひと息で技をきめてしまうことである。一つの技(正式には形)で息を何度も吸ったり吐いたりすれば、拍子が崩れてしまい、技にはならない。

「イクムスビ」では、「イ」で吐いて、「ク」で吸って、「ム」で吐き、これで一つの技(音楽における節)を収めてしまうのである。この息づかいで、息を強くしたり弱くしたり、早くしたり遅くしたり、大きくしたり小さくしたりして、体をつかうのである。息づかいは自由だから、拍子も自由自在となる。だから、この息づかいと体づかいで一瞬に収めることもできる。兵法でいうところの無拍子というものであろう。これが合気道、兵法の拍子と考える。

実際に技をかける際に、拍子が大事であるとよくわかる技(形)は「交差取り二教」だろう。拍子の出来不出来で技の効き方が違ってくるのが、わかりやすいからである。

この「交差取り二教」でわかるように、息と体と心が一致して拍子にならなければならない。息だけ拍子にのってもだめで、体も心も拍子にのらなければならない。そのためには、先述の「イクムスビ」の息づかいによる拍子のほかに、体の拍子が必要である。

体が拍子にのるためには、足を右左交互に陰陽につかわなければならないし、また手も右左交互に陰陽につかわなければならない。この手と足のつかい方を誤れば、体は拍子にのらない。

また、心も拍子で働くようにしなければならない。まずは心が働かなければ、息も体も働けない。心で技の流れや相手の姿を、拍子によってイメージすることである。

開祖は、相手に技をかける前に相手の倒れる姿が見えた、といわれていた。一瞬の心の拍子で、それをイメージされていたのだろうと思う。

本部道場の床の間には、開祖が揮毫された「合気道」の大きな軸が掛けられている。半世紀もの間、稽古の際にはいつも拝見させて頂いているが、見飽きることがなく、毎回、新鮮な気持ちで鑑賞させて頂いている。

この開祖が書かれた「合気道」という文字は、いかなる書道の大家も描くことができないといわれている。これまでその理由を考え続けてきたが、今回、その理由は「拍子」にあるのではないかと考えた。開祖の拍子は兵法の拍子であり、だから誰も真似ができないのではないか、ということである。「兵法の拍子、鍛錬なくては及び難き所也」なのである。