【第511回】 共栄の稽古

半世紀にわたる稽古をしてきた。数え切れないほど多くの人たちと技をかけ、受けを取り合う稽古を続けてきた。そして、いろいろな事を教わった。

そのひとつに、人はみんな違うということ、また、たとえ初心者であっても、己より優れたものを必ず持っているということがある。

合気道の稽古を長くやっていれば力もつくし、要領も得てくる。そして、先輩や先人が減っていく半面、後進がどんどん増えてくる。すると、よほど気をつけて稽古をしていかないと、自分がうまくなったと勘違いしてしまうものだ。

うまくなる、上達する、ということは、自分自身がよい方へ絶対的に変わっていくことである。他人との比較という相対的なものではない。まだ力がなく、技も未熟な後進・後輩を投げたり、決めたりしても、それは相手と自分の相対的なことであり、己が上達した結果とは限らない。

長らく稽古を続けている高齢者は、おそらく高段者ということになるだろう。稽古の相手はたいていの場合に、己より段が低く、呼吸力も十分に備わってないはずである。従って、以前の稽古のように気持ちと力を思いっきり出し、相手にぶつかって力一杯技をかけながら上達する、ということはできないだろう。だが、上達のためには精進し続けなければならない。さらに上達するためには、高段者の稽古はこれまでと違ったものにならなければならないはずである。

高齢者で高段者の稽古のあるべきモットーとは、「共栄の稽古」であると考える。つまり、自分の稽古にもなるし、相手の稽古にもなるような、いわゆるウィンウィンの稽古をするのである。

そのためには、まず先述のように、人はみんな違うということ、長所と短所、強い面と弱い面を持っていることを認識し、その認識のもとに稽古することである。次に、相手の長所を見つけ、その長所を認め、そして、その長所を伸ばす手伝いをしてあげると共に、自分に取り入れていくことである。

さらに相手の問題点を見つけ、その問題点を相手に気づかせるように導くと共に、自分にも同じ問題がないかどうか見つめ、同じような問題を持たないように注意していくことである。このような稽古が、自分のためにもなり、相手のためにもなる「共栄の稽古」でないかと考える。

一般社会でも、一方だけが得をするのではなく、当事者双方が得をするような共栄が望まれている。だが、今のところ、どのようにすれば共栄の社会システムをつくることができるのかは分からない。ただ、合気道で「共栄の稽古」をし、社会にその手本を示していけば、共栄の社会の構築への一助になるはずであるし、開祖もそれをお待ちのはずである。