【第510回】 差別や偏見のない世界をつくるには

新聞やテレビを見ると、世界にはまだまだ差別や偏見があって、苦しんでいる人たちが大勢いることがわかる。多くの国や人たちが、差別や偏見はいけない事であり、無くさなければならないといっているのだが、根本的に是正するのは難しいようだ。

今回は、この差別や偏見が無くならない原因と、その問題の根本的な解決策を、合気道の教えから提示してみたいと思う。

まず、なぜ差別や偏見があり、それが無くならないか、その原因を合気道の観点から見てみることにする。

  1. 今はまだ、自由主義とか共産主義といっても、要は力の社会、競争社会であり、物質文明である。モノや力を持つための競争社会であり、少しでも多くのよいモノや強い力を獲得しようとする勝負の世界である。よいモノ、高価なモノを多く獲得・所有した人が勝利者であり、羨望・尊敬の的となる。そして、この勝負に負けまいとする競争社会なのである。これを、合気道では魄の世界という。
  2. この魄の世界で人々が追い求めているのは、モノ(金、物)や力であり、見えるものである。人は見えるモノの外見で優劣を決めたり、選択することになる。外見によって良し悪しを決め、よいと思うものを大事にし、悪いと思うものは無視したり、排除することになる。これが資本主義の原理、市場原理ということで容認され、普及しているものであろう。
  3. これらのことから、この世界が結果主義となっていることがわかる。プロセスは大事ではない。結果がよければよいのである。
つまり、この見える世界、魄の世界での外見上の比較、選択、排除こそが、差別・偏見であると考える。

もちろん、合気道でもモノや力の「魄」が悪いとか、必要ない、とはいわない。モノや金がなければ生きていけないはずだし、人が生きていく上で必要であるからである。

ただ、その見えるモノや力にだけ頼っては駄目だ、と教えられているのである。駄目だというのは、人はそれだけでは決して満足できないし、幸せとは思えない、といことである。

次に、差別や偏見をなくすためにはどうすればよいか、ということである。合気道では、魄の世界を魂の世界に振り返らなければならない、といわれている。モノや力の見える世界から、見えない「魂」の世界に返るのである。簡単にいえば、見えるモノを追い求めたり、評価するのではなく、見えないモノである「心」を重視し、「心」が主体となって他の「心」を評価し、そして己の「心」の精進をしていく世界、ということである。

見えないモノを見るというのは、ちょっと修業しなければ難しいだろうが、凡人にも見る方法はある。目をつぶって、相手の声を聴いたり、そばにいて感じるのである。合気道でいう言霊という響きである。

外見は見なくても、相手の気持ち、つまり、「心」がわかるだろう。その人の外見でなく、その人の内心がわかるはずである。肌の色や民族、体の大小、服装、持ち物などに関係なく、その人の心がわかるのである。人は外見ではなく、心によって感動したり、腹を立てたりするのである。

もちろん人の顔を見て、心を読むこともできる。口ではなんとでもいえるが、心を隠すことは難しい。テレビで登場している人の表情を見ると、その人の心がよくわかってなかなか面白い。

なれてくれば、人を知るために見る必要はなくなるだろう。合気道の開祖はよく「相手を見るな」「剣を見るな」といわれ、「気が相手や剣に吸収されてしまうから」ともいわれていた。その裏に、真の相手や、剣の心が観えなくなってしまうので、目で見るな、といわれていたのではないかと考える。

合気道は、この差別や偏見をなくす世界へのお手伝いをしなければならないが、われわれ稽古人たちは、そのためにどのような稽古をしていかなければならないか、を研究してみよう。 ここで、見えている稽古相手の外見ではなく、見えない己の心で相手の心を見るようにする。心で相手の心を見れば、相手の外見は重要ではなくなってくるものだ。心こそ大事で、外見は二次的なことになるはずである。

合気道の稽古で心を表に出すことを学び、そのような稽古人たちが増えていけば、この差別や偏見の世に影響を与えることになり、差別や偏見が無くなっていくはずである。開祖は、合気道はこれまで必然的に溜まってしまったカス(差別や偏見等)を取り除いていくのが使命である、といわれているわけだから、われわれ合気道家はこの世のカスを取り除くためにも、稽古に励まなければならないと考える。開祖も、きっとそれをわれわれ後進たちに期待しているはずである。

この世の差別や偏見をなくそうと、たくさんの人たちが論議し、悪戦苦闘しているが、私はこの差別や偏見の問題を解決できるのは合気道の教えと、それを実践していくことしかないように思うのである。