【第507回】  日々変わらなければならない

合気道を50年以上続けているが、今や合気道は自分の一部である。また自分を導いてくれ、教えてくれる師でもあり、人生を共にする同士でもある。

入門当時は、合気道はスポーツなどの練習の厳しさに比べると楽だった。基本の形など2,3年で覚えてしまえるし、なんと容易な武道だろうと思ったものだった。

しかし、一時休みはしたものの、お蔭様で辞めることなく、今日まで稽古を続けさせてもらっている。そして、今では、合気道ほど難しい武道はない、と確信するようになった。難しいというのは目標が膨大で、行き着くべき先が見えないし、そこに行くためにどうすればよいのかが分からない、ということである。

さらに、開祖や先人が残された技や思想などの遺産を身につけると共に、その衣をまた脱ぎ捨て、新たな衣を身につけていかなければならないのである。合気の技を身につけていくのさえ大変なのに、せっかく身につけたものを捨てなければならないのである。

このためには、真の修業を一生懸命にやらなければならない。開祖は「合気道は日々新しい天の運化とともに、古き武の衣を脱ぎ、成長達成向上を続ける、誠の修行に専念しなければならない」といわれているのである。

要は真の目標に到達したり成長・上達向上するために、宇宙は止まることなく常に運行しているわけだから、己も古いもので固まることなく、身につけては脱ぎ、脱いではつける、という脱皮を繰り返していかなければならない、ということである。

半世紀も合気道を続けてきて、ひとつ残念に思うことは、まだまだ元気で稽古が続けられる稽古人が、このようにすばらしい合気道の稽古を止めてしまう事である。仕事や家庭事情、体の故障などで止めていく人も多いだろうが、違う理由で止めることもあるようである。それは、おそらく稽古に行き詰って止めていくのではないかと思う。

行き詰まりの原因は、己の技、そして、己が変わらないことであろう。己の技や己が変わらなければつまらないことだろう。稽古の喜びは技が変わること、そして己が変わることであるからである。そして、それが稽古の励み、そして生きる励みになるはずだと考える。

これは絶対に正しいとか、自分の得意技であるとか、先生や先輩からの教えである、等で身を固めたり、閉じこもってしまったり、それだけに頼ってしまうと新しいものは身に入らないし、身につかないだろう。すると、己の技も、己自身も変わらないことになるわけである。変わらない技と自分を10年も見ていれば、自分に嫌気がさすのは当然なことであろう。

変わるのが難しいとか、古い衣を脱ぎ捨てたくない、というのなら、古武道や古武術をやった方がよいかも知れない。古武道や古武術なら、剣術、居合道にしても、柔術にしても、伝統を重んじ、先人の形を崩さず、できるだけ正確に継承しなければならないはずである。これは、日々変わっていかなければならない合気道とは対照的である。

己の技や己自身が変わっていくというのは、合気道の目標に近づいていくことである。そのためには、合気道という「道」に乗らなければならないし、その「道」から外れず、その「道」を進んでいかなければならない。

そのために開祖は「天地の真性に学び、天地に同化し御姿、御振りを身魂に現わすべく誠の修行に専念しなければならない」といわれているのである。(「合気神髄」P60)つまり、勝った負けたとか、強い弱いの力(魄)の稽古ではなく、天地に学び、天地に同化する、心(魂)の稽古をしていかなければならないということだろう。