【第506回】  禊がないとものは生まれない

合気道は、やればやるほど難しくなるものだ。難しくなるとは、やるべきであることがどんどん遠ざかっていき、目標までの底がどんどん深まっていく、ということである。

初心者は合気道の基本の形を覚え、形をなぞって相手を投げたり、受け身が取れると、合気道ができたように思って、合気道などこんな簡単なものかと思うことだろう。私自身も、当時はそう思っていたものである。

それが、今では合気道ほど難しく奥深いものはない、と思うようになったし、そう確信している。年のせいか、50年以上も稽古を続けたせいなのか分からないが、変わったのである。

入門当時から5,6年間であるが、大先生(開祖)からはいろいろなお話を伺ったものである。当時はよく理解できなかったし、あまり興味もなかったが、不思議なことにそのお話が耳に残っている。そして、そのお言葉が合気道を修業していく上で非常に大事なことであることが、今になって解ってくるのである。つまり、開祖のお言葉が解らなければ、合気道はわからないということである。

耳に残っているお言葉のひとつに、「禊ぎ」というのがある。合気道は禊ぎであるとか、禊ぎがないとものは生まれない、等である。最近『合気神髄』を読んでいたら、この「禊ぎがないと、ものが生まれません」(P 22)という言葉が目につき、開祖を思いだすとともに、この言葉の通りであると思った。今回は、この言葉を研究してみることにする。

開祖は最晩年まで、毎日、そしてことある毎に、祈りや稽古で禊ぎをされていた。開祖は少しでもよい合気道をつくるため、そしてそれを残すために、最後の最後まで日々、修業に励んでおられた。われわれ凡人から見れば、あのような超人的な力と能力を持たれ、顕幽神界を自由に行きすることがお出来になったのだから、それ以上の修業など必要ないように思っていた。だが、開祖はいつも、まだまだ修行じゃとか、これからが修業じゃ、などといって、最後まで修業を続けておられたのである。

当然、開祖の修業は禊ぎである。溜まっていくカス、宇宙楽園建設のための生成化育を妨げるものを取り除いていく「武」である。禊ぎによって、それを妨げるものを除き、新しいものを生んでいかれたのである。それを、われわれに「禊ぎがないと、ものが生まれません」と教えられたのだと考える。

合気道を修業していく者は、この教えを守らなければならないはずである。実際、教えを守らないと、上達が止まってしまったり、体を壊すなどして、結局修業を止めてしまう稽古人が多くいるように思える。

それでは、このお言葉をどのように修業に取り入れていけばよいか、を考えなければならないだろう。

「禊ぎがないと、ものが生まれません」とは、ひらたくいわせてもらえば、邪魔になるものを除いていかないと、新しい技は出てこない、ということだろう。邪魔になるものとは、古いものへのこだわりや、自分の思い込みや自己満足、癖、やりやすいからとの安易性、カッコいいなどと思うところからくる見栄、などであろう。これら邪魔になるものがあれば、技の進歩、上達はないということである。

進歩、上達をしたければ、これら邪魔になるものを除くために禊ぎをしなければならない。だが、もちろん容易ではない。開祖でさえ、最後まで少しでも邪魔ものを取り除くべく努力されていたはずだから、われわれ凡人においておや、である。邪魔になる大きいものから、一つずつ禊いでいくしかないだろう。

まずは、身体を禊がなければならないが、これはそれほど難しくはないだろう。身体は見えるし、禊いでいけばその身体の変化や働きがわかるからである。

次に、心の禊ぎとなるが、これは難しいようだ。心は見えないし、相手や状況によって変わりやすいからである。体力・腕力で、稽古の相手が自分より上の場合は負けまいと力んでしまったり、逆に、相手が弱いと見た場合には、自己流や癖が出たり、また、カッコよくやろう等となりがちである。

特に、長年稽古を続けていると、心に邪魔なカスが溜まってしまう危険性をはらむことになる。強く、そしてうまくなると、同時に上達を阻害する邪魔者であるカスが肥大化し、強力になるのである。従って、稽古を長くやればやるほど、古くなればなるほど、禊ぎをしっかりとしていかなければならないだろう。

もちろん、周りから名人、達人、上手などといわれるようになっても、禊ぎを続けなければならない。禊ぎをしなくなれば、上達はないだろう。われわれの修業の目標は宇宙との一体化などであり、はるか彼方にあって、それに一歩でも近づくべく精進しているはずである。弱いものや下手なものと比較して、自己満足し、自分のやることがすべて正しいと思ったり、押しつけたりするのは、合気道の禊ぎの精神に反するし、邪道に陥ることになる。

つまり、技の上達が止まったり、技が変わらないということになれば、禊ぎがないということになるわけである。

すべてが禊がれることは、おそらくないだろう。しかし、禊がれる程度に応じて、技も生まれ、変わっていくことは、確かなようである。だから、上達したければ禊いでいかなければならない。大事なのは、どこまで変われるか、行けるか、ということであろう。最晩年の技を楽しみにして、禊ぎを続けていくしかない。