【第503回】  「心を洗う」さらなる禊ぎ

日本画家の巨匠で、女性の目による「美人画」(写真)を描き、女性として初めて文化勲章を受章した上村松園(1875年-1949年)の絵が「見ると心が洗われる」と専門家によって紹介されていた。

この画家は、心を洗うような絵を描かなければならない、といっていたそうである。これを聞いて、衝撃を受けた。なぜならば、これはこれまで探し続けてきた、合気道が進むべき道ではないか、と直感したからである。

心を洗うということは、己の邪まな心に気づいて、それを恥ずかしく思い、それを捨てよう、捨てなければならないと思う、ということであろう。

上村松園の絵は見る人の心を洗う、ということであるが、合気道的にいうならば、彼女の絵が見る人の禊ぎになる、ということであろう。

合気道は禊ぎである、と教わっている。技の錬磨によって体と心のカスを取り除いていくのである。これは、これまでにも何度か書いてきたことである。

しかし、合気道が禊ぎであるということには、さらに深い意味があるようである。これまでの禊は、禊をする本人の禊ぎであったわけだが、この「心を洗う」の思想で考えれば、己だけでなく、他をも禊ぐ、ということになる。

他人を「心を洗う」ような禊ぎをするようになるためには、己自身が「心を洗う」禊ぎをしなければならないだろう。合気道では、それを技の錬磨によって会得しようとしているわけだから、それをやっていけばよいことになる。

しかし、他人の心を洗えるようになるのは、容易ではないことであるはずだ。他人の心を洗うためには、それだけのことを身につけなければならないし、修業と努力がいるだろう。上村松園は、絵一筋に70数才まで描き続けて、心を洗う絵が描けるようになったのである。

合気道の開祖も、ご自分の禊の修業を十二分に行われたのはもちろんである。そして、その結果、他の人たちの心を洗う禊になり、実際に多くの人の心を洗っていかれたのであろう。

開祖の周りには武道関係者だけでなく、宗教、科学、芸能、芸術、教育、政治などなど、武道とは直接関係ない一流の方々が集まってこられた。それがなぜなのか、これまではっきりわからなかったが、これで分かったように思う。

つまり、開祖が強いとか、神業をつかうということだけでなく、人々は己の心を洗いに来られていたのではないだろうか。開祖のところに来られた方は、恐らくそれを意識していたわけではないだろうが、気持ちよく、すっきりとした心で帰っていかれたことだろう。

開祖はお客が来られた時など、自室でお話をされた後で、お客を道場にお連れしてよく神楽舞をされた。我々稽古人は正座して拝見していたのだが、早く稽古をしたいとじりじりしていたものだ。だが、お客さんはうれしそうに、満足気に見ておられたのが常であったように思う。思い出してみれば、開祖の神楽舞がお客さんの心を洗っていた、ということである。

合気道の修業は禊であり、まずは己自身を禊がなければならない。そして、開祖を見習って、他人の心を洗う禊ぎにまでならなければならないだろう。とすると、そのためにはどのような修業をしていかなければならないか、ということになる。

合気道は、真善美の探究である、ともいわれている。至真、至善、至美と、極限の真善美を目指して修業するのである。身の周りにも、至真、至善、至美があって、心を洗われることがある。例えば、朝日や夕陽、青空の下の満開の桜や、紅葉した山々、黄葉した銀杏、雨上がりの木々や草花、透明な川や海、雪をかぶった山、または幼児の顔、等々。

自然なもの、純真無垢なものなどを見ると、心を洗われるものである。幼児の顔や姿を見ると、心が和み、笑みが出る。これは、己の心が洗われるからだろう。上記のような自然のものを見ても、よい気分になり、嫌なことなど忘れるものだ。よい絵を観たり、いい音楽を聞いたり、よい文章を読むのは、無意識のうちに己の心を洗おうとしている、ともいえるだろう。

合気道では、己の技で見る人の心を洗うようになる修業をしなければならないことになる。これが、開祖がいわれている真の禊ぎであり、これこそが合気道の使命、つまり、宇宙楽園への生成化育のお手伝いである、と考える。

まずは、合気道同士の心を洗えるようになることだろう。