【第497回】  魄から魂への稽古へ

合気道は、相対の技の練り合いで精進していく武道である。一人で剣や杖を振ったり、山歩きや山籠もりで修業することもあるだろうが、その成果を試すためには他人を相手にすることになるから、一人だけでは精進できないものである。

相対での形稽古では技をかけあうのであるが、初めは己の腕力や体力の力である魄に頼ってやることになる。力をつかうから、力が強くなり、体もできてくる。そして、相手を倒すことも楽になってくる。そうすると、ますます力に頼るようになる。これは、いわゆる魄の稽古である。

しかしながら、合気道は言霊の妙用であるとか、形はなくすべて魂の学びである、さらには「合気は魂の力です。これを修業しなければなりません」などといわれている。合気道は魂の力が大事であって、魂の力を養成しなければならないのである。要は、技は魄ではなく、魂の力でつかわなければならないのである。

技は腕力、体力などの魄の力ではなく、魂の力でかけなければならない、ということはわかるが、では魂の力とはどういうものなのか、魂の力で技をかけるとはどういうことなのかが難しい。

物事には順序がある。道を進むにもやるべき過程があり、それを着実にやって、次に進んで行かなければならない。マンガや映画のように、念じれば実現するものではない。

魂の力をつかうようになる前に、やるべき事がある。まず、五体を丈夫にし、節々のカスを取り除き、心臓や肺などの内臓を鍛え、そして力をつけることである。しっかりした体をつくることであり、つまり魄の養成である。

体ができてきたら、今度は体のつかい方である。これまで書いてきたように、陰陽と十字につかうのである。宇宙の条理に則った法則で、体をつかうことを覚えなければならない。

次に、呼吸である。理合いの息づかいを、形稽古で身につけていくのである。「イクムスビ」で技をつかっていくことと、腹式呼吸と胸式呼吸により、縦と横の息を十字につかっていくことである。

体と息が陰陽、十字でつかえるようになると、引力が増大し、稽古相手と一体化できるようになってくる。

ここまでは、まだ魄の力で技をかけているはずである。だが、ここらあたりで、魂の力で技をつかうようにしなければならないのではないか、と思うようになるし、できるのではないか、と思うようになってくるものだ。

まず大事な事は、これまでに培って、つかってきた力は恥ずべきものでもないし、排除する必要もなく、大事にしなければならない、ということである。

これを、開祖は「合気(道)は魄を排するのではなく土台として、魂の世界にふりかえるのである」といわれている。ただ、それまでのように培った体力、腕力を前面に出すのではなく、土台にして、魂が出て活躍するようにすればよいのである。

魄から魂の世界に振り返る、とはどのようなものなのかは、まだよくわからないところがあるが、試行錯誤して探していくしかないだろう。

試行錯誤の一つの例を、二教裏で見てみよう。魄の二教裏は、息を吐きながら腕力で相手の手首を決める。だが、これは力の差が相当なければ、効くものではない。ここに、魄の限界というものを感じるのである。

次に、息を入れながら相手全体を吸い込む気持ちで、相手の手首を引きつけると、痛くもないのに、相手のがんばろうとする気持ちが消滅し、こちらと一体化するのである。あとは、こちらの気持ちで相手を自由に導くことができるようになる。これが、魂の世界での技づかいではないかと思う。

なお、この決めのところに行くまでの過程も重要であるだろう。「合気とは言霊の響きによる禊の業をいうのである」といわれているから、技は言霊のひびきによって生まれるわけである。また、言霊は気の動きによって生じるわけであるから、気(宇宙・生命エネルギー)を動かせばよい。

『合気道の思想と技』第496回 「魂魄結合の武」で書いたように、開祖は、
呼吸で体を左、右、左につかうと武が生まれ、魂が開花する、といわれている。縦と横の十字の呼吸で、手と足と腹の体を左、右、左と陰陽に理合いでつかえば、気が動き、魂が生まれてくるということである。

二教裏も、呼吸と体をこのように理合いでつかうので、魂の世界に入っていけるのだろうと思う。魂とは宇宙のひびき、言霊であり、それと共鳴する真の心であろう。

魂の世界に入れば、心と体が結びつき、魂魄が結合する。開祖は、これが真の武である、といわれているのである。

これからも、試行錯誤と失敗を繰り返し、魂の世界での稽古を繰り返し、真の武を目指して、開祖の技や動きを思い起こしながら、稽古を続けていくしかないだろう。