【第491回】  裸で勝負

定年になって、厳しい競争社会から離れ、それまでの時間の流れからも外れ、今度は自分の時間の流れに乗って生活している。この時間の流れの行き先は、死ということになるだろう。前の時間の流れの先は仕事だったり、豊かさ等であったが、死ではなかった。これからは、死に流れつくまでの時間をいかに有意義に生きていくか、が大事になるだろう。

若い時には、自分を飾るものが必要だった。着るモノなどにも気をつかい、金もないのに持ち物、髪型、履物なども、少しでもよいものを購入しようとした。かっこいい服や、高級車、豪邸等を持っている人が羨ましく、そうなりたいと願ったものだ。

周りの若い人たちを見ると、同じことをしているように見える。合気道でも上の段を取ろうとあせったり、段が上なら上手になったと思ってしまう。これは物質文明、魄の世界を享受しているわけであり、高齢者の目から見れば、惑わされているとも見えるのである。

古希を越えてくると、モノには興味がなくなってくるようだ。ディオールのファッションも高級車も豪邸にも興味がなくなり、羨ましいとも思わなくなる。今、興味があるのは自分自身であり、飾りを取った裸の他人である。

若い時には10年近く外国で生活したし、帰国後は30年ほど外国人と一緒に仕事をしてきた(今も多少、外国人と仕事を続けている)。外国では友人や仕事仲間にとって服装がどうとか、実家が裕福で豪邸や高級車があるかどうか、などはあまり関係がない。興味があるのは、その人の人格、性格、知識、知恵、能力などである。つまり、飾りではなく、裸の個人に興味があるということになる。

これは、年を取ってからの見方と同じである。年を取ってくると、見えるモノ、身を飾っているモノにも興味がなくなり、評価しなくなるものだ。超高齢者で、名前が知れわたっている片岡球子、篠田桃紅、日野原重明等も、自分の身を飾るもの、例えば、豪邸や高級車やファッションなどを評価したり自慢することはなさそうだ。昔の著名人である松尾芭蕉、小林一茶、葛飾北斎、与謝蕪村、兼好法師等々も、身を飾るモノは最小であればよいといっているし、実行していたことだろう。

大事なモノとは、見えないモノである心であり、感性であり、裸の個である、ということになろう。完全に裸になるのはなかなか難しいようだが、少しずつ飾りを取り除いて裸になっていくことが、高齢者の勝負になるはずである。

若い内は自分を飾るモノが必要であるが、高齢者になったらその飾りに頼らず、飾りを取り除き、裸の自分で勝負できるようにすべきだろうと考える。