【第489回】  顕界と幽界を生きる

合気道を修業している人は、稽古もするが、社会での経済活動もしているはずである。生きる上では経済は不可欠で、大事である。経済的な問題があれば稽古どころではないし、生きていくことさえ難しくなる。だから、合気道の道場に通い、稽古を続けられる人は幸せである、ということになる。

合気道の道場に通う目的は、人それぞれに違いがあるだろう。強くなりたいとか、健康のため、等々あるだろうが、私は意識しているか無意識かの差はあっても、別の世界、別の自分を知りたいと思って入門するのではないか、と考える。なぜならば、けんかなどに強くなりたければボクシングや空手など手っ取り早いものがあるし、健康のためならヨガや太極拳など、もっと楽に健康を得られるものがあるので、わざわざ合気道を選ぶ必要もないからである。

合気道を続けていると、だんだん分かってくることがある。別の世界と、別の自分が分かってくるのである。

開祖は、宇宙と己は同じであり、宇宙のことが分かれば、それだけ己が分かる、といわれている。合気道の修業の目的は宇宙との一体化でもあるから、修業が進めば宇宙が分かり、そして、自分がわかってくるのである。これが、一つの別世界である。

もう一つの別世界は、合気道で云うところの「幽界」である。見える世界の「顕界」に対する見えない世界である。顕界はモノと力という魄主導の世界であるが、幽界は心や精神の魂主導の世界である。合気道の同士は、日常の魄主導の競争生活におけるモノや力の競争とは無関係な幽界を楽しむべく、幽界の道場に通っているはずである。

道場では金持や貧乏人も関係なく、有名人や著名人でも一介の稽古人である。体力、腕力があるかないか等も、この幽界の世界では評価が低い。

道場は世俗の顕界を離れた幽界であるから、世俗の事を引っさげたまま道場に入ると、幽界に遊ぶことはできない。稽古も顕界の稽古となって、力に頼るものになってしまうだろう。

そうならないためにも、道場に入る前に世俗のことを忘れ、道場に入る時や稽古初めには、幽界に入るための儀式(例えば、礼)を心をこめて行わなければならない。また、道場に入ったら遊魂を呼び寄せ、鎮魂し、幽界に入っていかなければならない。道場の中で足を投げ出したり、ぺちゃぺちゃしゃべっているようでは、幽界には入れないし、技も身につかないだろう。

幽界の稽古は、顕界とは違って、他人との優劣を争うような相対的なものではなく、己自身との絶対的な戦いである。己を精進するために、稽古していくのである。そのためには、宇宙の助け、神の助けが必要になる。神とは、真理ともいえる。

合気道の技の錬磨を通して精進していくわけだが、合気道の技は宇宙の営み・条理・法則で、それを見つけ、身につけていくのである。技がじゅうぶん身につけば、宇宙が身につくことになり、宇宙になって、宇宙と一体化することになるわけである。

合気道は幽界で修業し、顕界とは異なる世界で生きていることになるが、道場を出れば、また顕界に戻らなければならない。そして、力の社会、モノ優先の世界で生きなければならないが、その顕界もまたしっかり生きなければならないのである。しっかり生きるとは、合気道の稽古での幽界で身につけた教えを、日常生活に取り入れていくことである、と考える。

稽古で、宇宙の生成化育の目標は何かとか、魄を土台にして魂を表に出さなければならない等を学んだとすれば、地球楽園や宇宙天国が完成するように仕事をし、またそのように生活を送るのがよいだろう。また、モノに固守するのではなく、心を大事にし、人に喜びを与えるようにしていけばよいだろう。

それが顕界である日常生活でできるようになれば、さらに幽界の稽古も進展し、より深い幽界に入っていけるようになるはずである。顕界と幽界を共に合気道の教えに則ってやっていけば、顕界と幽界の相乗効果が現れ、顕界と幽界の二つの世界を楽しく生きることができて、稽古もできるだろう。