【第487回】  超高齢者の力

人は己の死を意識したときから、本当の仕事ができ、真に生きることができるようになる、といってもよいだろう。死ぬ事を考えることは、生きることを考えることである。いかに満足し、不満をなるべく残さないように生きていくか、を考えるからである。だが、それにはある程度年を取らなければならないようだ。

私は70才半ばであるが、早く80才、90才になりたいと思っている。なぜなら、己はまだまだ未熟であり、修行もまだまだ足りないと実感しているからである。それで、80才になれば、もう少しはましになるのではないかと期待している。

何かに挑戦しながら年を取るというのは、すばらしいことである。本人にとっては、体が自由に動かなくなるとか、耳や目が不自由になるとか、食欲がなくなる、などと問題が増えていくだろうが、年を取ることによって、長年つちかった知恵や教えを、われわれ中高年や若者たちに与えてくれるようになる。

とりわけ100才を越える超高齢者の力の凄さには、感嘆させられることが多い。先日、美術家の篠田桃紅さんが100才で書かれた自伝『百歳の力』を読んだ。超高齢者の力を思い知らされると同時に、彼女が目指している美術の道も、合気の道に共通するものがあることがわかり、教えられることも多かったので、その一部を紹介させてもらう。

「私は、肉体的な力、腕力で描いているわけではないから、腕がくたびれるなんてことはないんです。不思議といえば不思議。ただ。筆が動いている。腕が動く以上、大丈夫なんです。強い力というものを必要としない。仕上がった絵を見ると力が入っているようなものもあるので、技術と道具の筆が生み出す間に、なにかがあるんです。それが芸術というものの秘密です。」

合気道でも、力(魄)でない力をつかわなければならない。それは、合気道は摩訶不思議でなければならない、という教えと同じだろう。これも、年を取らないと難しいものだ。

「日本の文化は、老いの芸術が多い。うまい人っていうのは、心をかたちにする。心とかたちというものの間の経路のつくりかたがうまいから名人なんですよ。私も物理的に線が引けなくなったとしても、引きたいと思うものを残したいと思う。それがよれよれの線であろうとも、かすれた線であろうとも。」

合気道でも有川定輝先生は、「俗に技は人格の表現と言われている。無心に稽古するとき、自ずから技に人格が現れる。技は人間が本来持っている宇宙生命力(気)の動きどおりにて千変万化する」といわれている。人格(心)が技(形)をつくるのであるから、心が働くかぎり技(形)ができることになるし、よい形のためには心(人格)を磨いていかなければならないことになる。

「私が古今東西の画家の中で最も尊敬する一人、葛飾北斎は次の言葉を残しています。『私は六歳の頃から、ものの姿を絵に写してきた。五十歳の頃からは随分たくさんの絵や本を出したが、よく考えてみると、七十歳までに描いたものには、ろくな絵はない。七十三になってどうやら、鳥やけだものや、虫や魚の本当の形とか、草木の生きている姿とかがわかってきた。だから八十歳になるとずっと進歩し、九十歳になったらいっそう奥まで見極めることができ、百歳になれば思い通りに描けるだろうし、百十歳になったらどんなものも生きているように描けるようになろう。どうぞ長生きされて、この私の言葉が嘘でないことを確かめていただきたいものである。』 私も生きているうちにやりたいことをどんどんやろうと思っています。」

私の場合も、七十歳までの技は、技とは程遠いものであったと思う。合気道でも、年を取らなければ理合いの真の技はつかえないのではないか、と思う。五年、十年、百歳の自分に思いをはせながら、稽古しなければならないだろう。

超高齢者の力は、驚きである。この本にはまだまだ勉強になることが書かれているので、興味があれば『百歳の力』(篠田桃紅著 集英社新書)を読むことをお勧めする。