【第487回】  天の浮橋に立つ

合気道では、技をつかう際はまず天の浮橋に立たなければならない、と教わっている。大先生が、われわれ稽古人に技を示されるときに、よく言われていたことである。

若い頃は、天の浮橋に立つとはどういうことか、そこに立てばどうなるか、などに関心もなく、ただめちゃくちゃな力稽古をしていた。だが、だんだん体力に頼れなくなってきたのか、大先生がいわれていた通り、まずは天の浮橋に立たなければならないと思うようになった。

これまでは、受けが攻撃してきた際や、また受けが技をかける際に、相手と接触した箇所が天の浮橋にならなければならない、と書いた。そこで、相手と結んでしまうのである。打たれた時でも、手首を取らせた場合、相手を投げたり抑えたりする場合などでも、相手との接点は天の浮橋になっていなければならない。技が相手に通じない大きい理由の一つは、接点がこの天の浮橋になっていないことである。

なぜ相手との接点が天の浮橋でないと技が効かないかというと、相手と結ぶ力となる合気が出ないからである。開祖はそれを「『ウ』は浮にして縦をなし、『ハ』は橋にして横にして横をなし、二つ結んで十字、ウキハシで縦横をなす。その浮橋にたたなして合気を産み出す」といわれている。

天の浮橋とは「火と水の相和している姿。すべての発兆。魂魄の正しく整った上に立った姿」の十字の姿、ということなのである。

天の浮橋に立って、相手に手を取らせたり打たせたりすると、相手と一体になる力、合気が出て、相手と一つになり、相手を導くことができるようになるわけである。だが、天の浮橋に立つのは容易ではないようだ。相手の手を、押したり引いたり、弾いてしまったり、離してしまったり、と争ってしまうと、その結果、相手に抑え込まれる事になる。

天の浮橋に立つためには、例えば、受けの相手に手首をつかませる場合に、

このように、天の浮橋にある状態では、相手は脱力状態になり、力を入れようという気持ちにならないし、もし力を入れたとしても、自分からこちらの方に崩れ込むことになる。

これが、相手との接点が天の浮橋に立たなければならないということである。さらにもう一つ、相手がいてもいなくても、己との接点がある。それは大地、床などと己の足の接点である。この足の接点も、天の浮橋に立たなければ、合気を産み出すことはできないはずである。

手が天の浮橋に立ってつかえるようになれば、その感覚で足をつかえばよいだろう。まずは、天の浮橋に立つつもりで足をつかって、技の錬磨をしたり、通りを歩くのである。足先と腰腹をつないで、腰から動かすのである。縦の腹式呼吸と横の胸式呼吸の十字の息のつかい方も大事である。四股踏みでも、足が天の浮橋に立つと、うまくいくようである。

天の浮橋に立った足づかいかどうかは、自分で感じて判断するしかないだろう。しかし、いえることは、腰で歩き、息に合わせているから、足がバタつかないはずである。力みが取れているから、己の体重はすべて地に降りるはずであり、相手は予想以上の重さを感じるはずである。

この体重が、技をかける際に手に集まると、体重が技になることになる。また、この体重の力は、相手をくっつけてしまう合気の力となるので、相手には予想もつかない大きい力であるとともに、違和感も持たれない力なのである。

天の浮橋に立つ足運び、足遣いとは、何といっても、大先生の足運び、足遣いである。芸能界や歌舞伎、能役者など、武道に縁のない方々が、大先生の許へ学びに来られた理由の一つが、この天の浮橋に立った足運び、足遣い、それに手遣いであったのではないかと考える。

合気道を稽古している人で膝を痛める人がけっこういるが、その原因には足遣いの悪さがあるようだ。足から歩を進めたり、腰と足と手をばらばらに床に落としたり、足をバタつかせたり、両足をそろえたままで手をつかったりするからだろう。

膝を痛めないためにも、天の浮橋に立った足運び、足遣いをしなければならないだろう。大先生は「自分を開眼させる為にはどうしたらよいのか、それは天の浮橋に立たなければならないのです」といわれているのである。