【第484回】  合気は変わらなければならない

開祖は「合気は日々、新しく天の運化とともに、古き衣を脱ぎかえ、成長達成向上を続け、研修しているということは毎度、ここに説いているのであります」(『合気神髄』)といわれている。

また、開祖がわれわれ稽古人に、合気は変わらなければならない。今日の合気と昨日とは違わなければならない、とよくいわれていたことも覚えている。当時はどういうことなのか分からなかったし、分かろうともしなかったが、最近ではそれが気になってきた。

私は大先生(開祖)晩年の5年間ほど、本部道場で稽古をさせて頂いた。だが、大先生が日々どのように変わられていたかは、当時、皆目わからなかった。

ただ大先生の変化の具合で、印象的なことがひとつある。私が入門した年に、大先生は本部道場の稽古の合間に、片手で持った杖を三人掛かりで押させた。もちろん、いくら押しても、大先生も杖もびくともしなかった。その翌年には、杖のかわりに木刀をつかって二、三人に押させたが、その木刀も微動だにしなかった。そのまた翌年だが、木刀や杖のかわりに腕をさし出して、その腕をひとりとかふたりに押させた。これは、年や体力などに合わせて技を変えてきたということだろう。

また、ある時、我々門人の前で技を示されて、「ここで力が入るようなら、合気はやめじゃ」といわれた。合気道をやめるという言葉に一同驚き、どういう意味かと困惑して顔を見合わせたものだった。

「合気は変わらなければならない」というのは、一つには合気道は変わっていかなければならないということだと考える。時代に合わせ、また、時代を先取りしなければならない、ということであろう。例えば、かつての決して負けてはならなかった柔術の時代の合気道(考え方、やり方等)とは違わなければならない。つまり、現在の合気道は、相手を敵と見立て、敵を制するために稽古をするのではなく、相手と一体となり、そして宇宙と一体になるための和合の稽古なのである。

二つ目は、技も変わらなければならない、ということだろう。合気道の技は宇宙の営みを形にした、宇宙の法則に則ったものである。技は宇宙の法則であるから、無限の法則があり、技があるはずである。一人や一代で会得することはできない。代々その無限の法則を広く、そして深く会得していかなければならない。

柔術の時代の魄主体の技と、世界平和や地上天国を目指す時代の技と、そして最終ゴールとなる地上楽園の時代の技とは、違わなければならないだろう。極端な想像をするとすれば、天女や天使のような世界で、魄の力ずくの技などはつかえないだろう。

実際、正面打ち一教にしても、呼吸法にしても、いくらでも法則が出てきて、これでよいということはないものだ。一つの法則の発見があれば、必ず次の発見があるはずである。これでよいと思い、それが最高と思って、その技にしがみついていると、技がよどんでくるはずである。上達しないだけではなく、体を壊すことにもなる。

開祖は、我々がその万分の一でもあれば十分、というほどの超人的なレベルに達しておられながら、亡くなる直前まで修業を続けておられた。それは、少しでも変わろうというお心からだろう。

合気道だけでなく、他の世界、例えば、画家や芸能家なども、少しでも変わろう、よくなろうとしているようである。画家や芸能家などだけではない。人の評価も生前はできないもので、死んだ後に評価されることになる。生前に評価されるとしたら、それは自己満足したり、諦めてしまったり、立ち止まってしまい、変わらなくなってしまったからである、と考える。

天は生成化育で運行しており、決して止まらない。古い衣を脱ぎかえ、成長向上を続け、修業を続けていかなければならない。