【第483回】  幽界

前回の第482回「宇宙との一体化」で書いたように、今回は「幽界」について、もう少し深く研究してみることにする。

「幽界」を、開祖は「仏の世界」といわれている。仏とは死んだ人であるから、幽界とは死んだ人の世界ということになる。

死んだ人の世界といえば、一般的には幽霊が出るなど、陰気でネガティブな世界のように捉えられることだろう。だが、合気道の世界では、それとは逆に、重要な価値ある世界とされる。つまり、顕界、幽界、神界を生きることが、合気道の目標でもあるのである。

幽界とは死んだ人の世界ではあるが、死んだ人たちと交流できる世界でもあるのである。死んだ人から教えを受けることのできる世界なのである。

例えば、もう亡くなられたが、合気道を教えて頂いた開祖や先生方と交流し、教えを受けることもできるのである。一生懸命に稽古をし、問題があって悩んだりすれば、夢でお会いして教えて頂いたり、お叱りを受けたりすることもあるだろう。

だが、夢だけに頼って幽界を楽しむのでは心許ない。やはり、顕界にあって幽界に入るのが、我々凡人には常道であると考える。通常の稽古で、顕界の日常の世界から道場という異次元の世界に入って稽古するのである。そのためには、儀式が必要であるし、心構えも大事である。

つまり、幽界に己の身を置いて、稽古するのである。たとえば、今は亡き開祖や先生方がそこに居られて、ご覧になっても恥ずかしくないような稽古をする。また、この場合、先生方ならどうされるだろう、などと仏と交流しながら稽古をすることもできるだろう。

顕界は目に見える世界であるが、幽界は目に見えない世界である。しかし、夢では姿も見えるし、恐ろしさや優しさ、威圧などを感じることもある。時には、金縛りにあって動けなくなることさえある。亡くなった方々も、幽界では生きているわけである。

さらに、神界では、ふだんの姿ではなく、仏や神の姿になることもあるようだ。筆者の場合だが、最近、有川先生が広目天の姿で現れた。それまではふつうの道着姿で現れたのだが、持国天や広目天のような甲冑を着用して現れたのである。

これは、それまでとは違って、仏や神との交流となるわけであり、神界に遊ぶことになるのではないかと考える。

だが、夢だけに頼らず、己の意識のもとで、仏と遊び、神と交流できるようにしたいものである。開祖は、神を相手に木刀や槍で稽古されていた、と語られている。最後に開祖がひとにらみすると、神は消えてしまい、そこで松竹梅の剣がつくられた、ということである。意識下での神との交流は可能である、ということになる。可能性を信じてやるしかないだろう。