【第477回】  「多クノ業ヲ望マズ一ツ一ツ自己ノモノトナス」

合気道は形稽古を通して精進するので、長年稽古をしていけば、より多くの形を知ることになる。入門して稽古をはじめて間もない頃は、新しい形や技ができるとうれしくなったり、仲間に自慢したりするものだ。また、初心者は先輩たちが自分の知らない形を知っているのが羨ましく、自分もなんとか身につけたいと思うだろう。そのようなことで、自分が知らない形、できない形をできる人には一目置いたり、自分も少しでも多くの形を身につけようと思うようになるものである。

初心者の内は、少しでも多くの形を身につけようと努力するのはよいことである。例えば、片手取りの四方投げや入身投げだけやり、正面打ち一教や小手返しはやらない、等というのはまずいだろう。得意なもの、不得意なものに関わらず、できるだけ多くの形を身につけるべく、挑戦すべきである。

つまり、白帯の間に、とはいわなくても、初段か二段ぐらいまでには、基本の形を一通り身につけていなければならないだろう。一教と二教の区別がつかないというのは、やはりまずいのである。

だが二段、三段になっても、自分ができる形の数を増やすことを目的に稽古しているとしたら、上達は止まってしまうはずである。なぜならば、合気道は形の数ではなく、技の質が大事であり、また、形を追うと、限界に突き当たるからである。

年とともにわかってくるものだが、形では相手は倒れてくれないものである。相手が倒れてくれるのは、技が効いたからである。つまり、形をいくら多く知っても、相手は倒れてくれないものである。そのため、形で倒れないと、柔道とか柔術とかの手をつかって倒そうとすることになる。

合気道は、形稽古を通して技を練っていくものである。合気道の形(正面打ち一教等)は宇宙の営みや宇宙の条理・法則で構成され、そこに詰まっているものなので、形稽古を繰り返し稽古することによって、宇宙の営み・条理・法則を見つけ、そして、身につけていくのである。これを、技の錬磨というはずである。

合気道の稽古は、それほど多くない形を繰り返し稽古するわけであるが、大事な事は、同じ形の稽古であっても、どんどん深く入っていかなければならないことである。つまり、初心者のころの稽古が、形をどんどん覚えていく「横の稽古」であるのに対して、深く入っていく「縦の稽古」ということになるだろう。

稽古は、「横の稽古」から「縦の稽古」に入らなければならない。形の数を求めるのではなく、技とその質を追求し、身につけていかなければならないのである。これを、開祖は『武道』で「徒(いたずら)ニ多クノ業ヲ望マズ一ツ一ツ自己ノモノトナスヲ要す」と戒められている。(注:この業は技と考えていいだろう)

一つの技(業)を自己のものにできたら、その技は他の形でもそのレベルでつかえるようになるものである。たとえその技が微小なものと思えても、すべての形につかえるのであるから、つまり、一が万に通じるわけである。新しい形を覚えたとしても、それは一つだけであるが、技を一つ深めれば、それは万に通じるから、万を身につけたことになる。従って、初心者の頃とは違い、技の深さが上手下手の基準になるだろう。

基本の形で形稽古を繰り返し、技を深め、焦らずに一つ一つ自己のモノとしていきたいものである。


参考資料  『武道』植芝守高著 昭和13年