【第473回】  積み重ね

何事もそうだろうが、合気道の稽古にも近道はないのである。習い事は、王道をいかなければならない。王道とは、誰もが通らなければならない道である、と思う。この道はまた、道であるから目的地がなければならない。

山の道はいくつかあっても、頂上につながっている。頂上を目指して山道を行く場合には、一歩一歩と歩を進めなければならない。一歩足を進めれば、一歩目標である頂上に近づくわけである。

合気の道も、同じようなものである。目標をもって、一歩一歩着実に歩を進めなければならない。合気道の稽古で一歩一歩着実にとは、習うべき事を習い、身につけるべきことを身につけていくことであろう。

初めは形稽古で、体の節々・隅ずみのカスを取り除き、そして力をつけ、体力をつくることである。

これは誰もが無意識のうちにやっていることであり、やればやるだけ効果があがるものなので、問題はないだろう。つまり、稽古は一歩一歩の積み重ねであるなどと考えなくても、稽古をすればよいということである。この頃は、やればやるほど上手くなる、と思うものである。

この段階では、受けの相手を倒すことに重きを置いて稽古していることだろう。相手が倒れればうれしいし、技をかけて相手にがんばられたり、倒れなければ、悲しんだり、怒ったりすることになる。この段階は相当長く続くようであり、多くの稽古人はここで行き詰ってしまうようだ。

しかし、自分が強くなり、うまくなるにしたがって、時として相手の抵抗は厳しくなるものである。そこで、考えることになる。

まずは、その抵抗に打ち勝つために、さらに力がつくように稽古したり、鍛錬棒や剣や杖の得物で力をつけ、体力をつけようとすることになる。それはある程度の効果があり、一時は満足できるようだが、本当の満足ではない。何かやるべきことがあるはずだが、何をどうすればよいかが分からないのである。

本当の稽古は、この時から始まる、と考える。それまでの稽古は自分の他、つまり、自分の外の流れに乗っていただけの稽古で、他から教えられたり、他との相対的な稽古であったといえよう。

本当の稽古とは、自分の流れ、自分の道に乗った稽古、ということである。他との戦いではなく、己自身との戦いになるのである。

自分の道に乗るためには、目指す目標を持たなければならない。目標と己自身をつないだものが道のはずだからである。また、目標は、王道に乗るようなものでなければならない。間違った目標やとんちんかんな目標を設定したら、それは道にならないし、合気の道に外れた“外道”を行くことになってしまう。

合気の道の目標は、開祖が『武産合気』『合気神髄』などでいわれているから、それを稽古の目標にするのがよい。その目標に近づくことが、進歩であり、上達である、ということになる。といっても、この進歩、上達が容易ではないのである。

進歩、上達が容易でないというのは、近道はない、ということである。マンガの主人公のように、急に超能力が出てくるなどということはない、ということである。

結局は、やるべきことを順序よく、一つずつ身につけていかなければならない。そこで、その覚悟、努力、忍耐がいることになる。

それでは、何をどのようにすればよいかというと、よい指導者がいれば、教えてもらえばよいが、身近にいなければ、自分に聞くしかないだろう。道に乗り、本当に道を進みたいと思えば、必ず己の体と心が教えてくれるはずである。その体と心の声に、耳を傾けるのである。

例えば、人によって違うだろうが、私の場合は約500回x4編=約2000編の論文にまとめた通り、やるべきであると思ったことをそういう順序でやってきたのである。これまでに約10年かかったわけだが、まだまだ続く。とてもあと何年で完了というわけにはいかない。積み重ねてやるべきことは際限なくある。

重要な事は、見えないモノを観、聞こえないモノを聞く、心の稽古をすることである。それまでの見える世界、顕界の稽古から、目に見えない幽界の稽古をしていくのである。受けの相手を導くのは、それまでの腕力、体力ではなく、心で導き、感じるようにするのである。開祖がいわれるように、魂(真の心)を魄の表に出すわけである。

心の稽古に入ると、誰か、何者かが導いて、助けてくれるようである。だから、自分の限界から踏み出すことができて、己を超越することができるようになるのである。己にこもり、己だけの力でやっても、大したことはできないだろうし、必ず壁にぶつかってしまうはずである。

己以外の何者かが力を貸してくれるように、やるべきことを順序よくやって、合気の道を進むべきである、と考える。合気道の稽古・修業も、積み重ねである。