【第471回】  合気の教えで高齢を生きる

合気道は、技を練りながら精進していく武道であるが、技を身につけていくのは容易ではない。技を身につけるということは、基本の形(例えば、正面打ち一教)とは違うのである。初めは体力、腕力に頼った魄の稽古が中心となるが、次第にその魄を土台にしながら、それまで後ろに控えていた魂で魄を導くようにならなければならないのである。つまり、今度は魂を表に出し、魄を後ろに控えさせるのである。もし、魂というのが分からなければ、心(こころ)と考えればよいだろう。なぜならば、真の心を魂というからである。

若い時は外見や見えるモノに価値を置き、それらを追い求めるものだ。高価な物、珍しい物だったりいろいろあるだろうが、それらの物を又たくさん持とうとする。そして、物を比較して、高いの安いの、珍しいとか平凡だとかで物を評価し、そして、同じように人もその基準で評価しようとするのである。

若い内は、物質科学の世界、そして競争社会に生きているわけである。合気道でいうところの魄の生き方である。

合気道では魄や魄の生き方は否定しておらず、経済(物、金)は大事であり、生きる上での土台である、と教えられている。確かにこの土台がしっかりしていなければ、合気道もできないし、何もできないはずである。

しかし、問題は、そのまま魄(物、金)に価値を置き、追い求め続けていたのでは満足できないであろう、というのが、合気道の教えなのである。実際、魄に満たされているのに、満足して生きてないような人が大勢いるように思える。

それでは何に価値を置くようにすればよいかというと、それは合気道でいう、魄から主導権を移譲される「心」である、と考える。

これが、定年になって競争社会で活動していた世界から離れる高齢者であれば、それまでとは違った生き方もできるようになるだろう。そうなれば、それまでとは異質の生き方をすべきであろう。それは、それまでのモノ、見えるモノに価値をおいていたのを、見えないモノ、つまりモノの心に価値をおき、そして、楽しむことであると考える。

例えば、人や草木を表面的に目で見るのではなく、心でみるのである。すると、純粋な子供の心に感動したり、どんな小さな草木も生きている喜びに輝いているのが見えるようになる。まさに心の交流があるようで、挨拶したくなるほどだ。一流の芸術家、例えば、熊谷守一画拍は心で虫や草木を観ていたはずである。

熊谷守一
「 地面に頬杖をつきながら、蟻の歩き方を幾年も見ていてわかったんですが、蟻は左の2番目の足から歩き出すんです」

また、例えば旅である。若い頃の旅の楽しみは、物見遊山といわれるように、あるモノを見たとか、そのモノ(場所、造形)がよかった、悪かったということになるだろう。

それを、心で楽しむようにするのである。山川の自然の心、海山の自然の美しさを見せてくれる宇宙の心、鳥や虫の心、草木の心等々や、そこで出会った人の心であり、心の交流である。

従って、高齢者の旅はどこそこに行ったとか、あそこを見た、ということではなく、心の感動であり、心の交流に価値がある、と考える。

合気道家は合気道の世界にとじこもっているだけでなく、一般社会へも合気道の教えを伝え、さらに世界へと関わっていけば、合気道をつくられた開祖植芝盛平翁も喜んで下さるはずである。

もちろん、そのためには、まずは自ら魄の稽古から魂(心)の稽古へと代えていかなければならないことになる。