【第471回】  合気道は形がない

合気の道は終わりがなく、無限に続く、と開祖はいわれる。開祖は『合気神髄』の中で「合気の道は無限であります。私は76歳になりますが、まだまだ修行中であります。修業の道には涯(はて)もなく、終わりもない。一生が修業の業であり、無限につづく道の道程であります。」といわれているのである。

合気の道、つまり、合気の修業・稽古には終わりがない、ということがどういうことなのか、を考えなければならないだろう。

私は常々、合気の修業・稽古には終わりがなく、涯なく続けなければならないはずだと思っている。だが、現実はそれに反して、多くの稽古人が修業に挫折し、早期引退しているのが気になっている。

体が動かなくなるとか、経済的なことなど、稽古を止めざるを得ない理由はあるだろう。だが、そこにはもっと根本的な原因があるように思うのである。それは、己の技が変わらないこと、変えようとしないこと、今のままでよいと思っていること、つまり、もう出来上がってしまっていることでないだろうか、と思う。

己の半世紀の稽古を振り返ってみると、馬鹿な事をしたり、何も分かっていないのに分かっているつもりだったり、と赤面してしまうことが多い。例えば、若い頃は相手を投げたり抑えることができれば、その技はよい技であり、確立された技と考え、人にもすすめたり、強制していたものだ。

一教などは腰をひねって相手を崩して喜んでいたし、二教裏なども効けばよいとばかりに力と勢いでかけて、効けば己の技はすごいと、有頂天になっていた。実は、このような稽古はつい最近まで続いていたのである。この次元の稽古から抜け出すのは、実に難しいようである。

しかし、力や勢いがなくなって、力や勢いに頼れなくなった事もあるだろうが、年と共に稽古のやり方、技づかいが変わってきた。変えたのは、己の魂、つまり真の心のようだ。このような稽古では駄目だぞ、そのような体づかい、息づかい、技づかいでは駄目で、こうやりなさい、ああやりなさい、と教えてくれるようになったのである。

そのように変わってきた背景には、開祖の教えである「合気道は形がない。形はなく、すべて魂の学びである」があるようだ。この教えが心の奥底に残っていたのである。

形がない、形ではない、ということの一つは、例えば正面打ち一教の形はこうであるとか、こうでなければならないということではない、ということである。もう一つの意味は、合気は魄の学びではない、ということであろう。魄には限界があるわけだから、永遠に続く合気の道ではないのである。

合気道の修業を早期引退することになる最大の理由は、この魄の稽古から脱することができないことにあるのではないだろうか。つまり、「出来上がってしまう」ことである。腕力や体力の魄力に頼り、形から離れることができず、変わることができないようになると、先の見通しもなくなって、止めてしまうのである。人の最大の悲劇のひとつは、変わらない事、変わることができない事であると思う。それは、世間や世界で起こっている問題や紛争を考えてみてもわかるだろう。

出来上がってしまう、ということは、止まってしまうことである。それは宇宙の営みに合致せず、故に宇宙の法則違反となる。宇宙の営みは留まることがないのである。これを、開祖は「宇宙生成化育の大道は止まるところがない」(「合気神髄」)といわれている。もちろん、合気道は宇宙の生成化育の道をいかなければならないし、それに則った技をつかわなければならないのである。

技も形を脱し、そして、宇宙の営みを一つ一つ技にし、決してそこで満足せず、更に、そして終わりなく、技を積み重ねていかなければならない。開祖は、これを「合気は日々、新しく天の運化とともに、古きを脱ぎかえ成長達成向上を続け、研修している」といわれている。