【第470回】  合気道は難しい

入門当時の頃、合気道とは容易に技を覚えることができ、試合も勝負もない気楽な武道である、と思っていた。毎日、2,3時間は稽古していたが、それまでやっていた中学と高校での陸上のハイジャンプや軟式テニスの方が練習も大変で、試合の前日も眠れないほど緊張していたものである。

それから半世紀以上になるわけだが、おかげさまで稽古を続けさせて頂いている。そして、やっと分かったのだが、合気道はそのように容易なものではなく、難しいということである。また、スポーツなどと違って、若い内は会得が難しく、ある程度年を取らなければ分からないであろう、ということである。

年を取らなければ分からないということを裏付ける言葉に、開祖の「修業の道には涯(はて)もなく、終わりもなく、一生が修業であり、無限につづく道の道程であります」がある。裏を返せば、修業の涯(はて)、終わりになるに従って合気道が身についてくるということである。だから、修業は少しでも長く続けなければならないことになり、年を取らなければならない、ということになる。

若い内は腕力や体力に頼って技をかけ、力をつけて体をつくろうとするものである。だが、年を取ってくると、力や体力には頼れなくなるし、また、できるだけ力に頼ろうとしなくなる。

しかし、精進はしなければならないし、上達もしなければならない。退化はできない。これは、生成化育をしている宇宙の営みであり、万有万物の定めであるからである。だから、これまでとは異なるやり方で精進しなければならないことになる。

まずは、若い頃の、体を痛めて体を鍛える、体主導の稽古を改めなければならないだろう。つまり、理合いの稽古をすることである。合気道での理とは、宇宙の条理である。宇宙の条理に反しないように、体をつかい、技をつかうのである。理合いの稽古をしていくと、宇宙の営みが想像できるようになるはずである。それを想像し、道場などの相対稽古で試す、つまり、実験するのである。その想像と実験を試行錯誤しながら、宇宙の法則に則っている技を身につけていくわけである。

これは、体力に頼る若い内は難しいようである。若い内は、目の前のモノしか目に留まらないし、関心がないだろう。年を取ってくると、まもなくお迎えが来ることを感じるようになるので、何が大事で、何が大事でないか、が分かってくるようになるようだ。

多くの場合、目に見えているモノよりも、目に見えないモノに興味が向いたり、感動するようになる。例えば、姿かたちがすばらしい女性などよりも、にこやかな笑顔の人や、純真無垢な子供へ目が行くようになる。心に感動、共感するのである。

年を取ってくると、見えないモノを信じることもできるようになるようだ。若い内は、見えないモノは信じないだろうし、拒否するだろう。己自身も若い頃は、開祖がお話しされたことであっても、見えないモノは信じられなかったし、信じようともしなかった。年を取ってくると、その愚かさが分かってくる。

自分の見えるモノだけを信じている間は、先へ進めないようだ。合気道を精進していくためには、見えないモノも信じていかなければならないはずである。開祖が厳しく長い修業から得られた体験と実践からの言葉であるのだから、信じなければならない。

それに、そうでなければ先へ進めないぞ、と開祖はいわれているのである。例えば、合気道はまず天の浮橋に立たなければならない、といわれている。実際に天の浮橋に立たなければ、合気道ではなく、合気道と異なるモノになってしまうだろう。また、魂で魄を導かなければならない、ともいわれている。顕幽神三界、一霊四魂三元八力、言霊、荒魂・和魂・幸魂・奇魂、生産び、気などなど沢山ある。

合気道は容易である、と思っている内は、まだ合気道の入り口にいる、ということである。合気道ほど難しいものはない、と思えるようになって、入り口を通りぬけ、中へ入るようにしたいものである。難しいから挑戦のし甲斐があるし、やり甲斐があるはずだ。最後に、合気道をやっていてよかったと思いたいものである。