【第468回】  幽界の心

合気道は技の錬磨を通して精進していくが、精進するのはなかなか難しいものである。いくら稽古しても、進歩、上達が感じられなかったり、あるいは第三者からは、精進どころか退化しているように見えるのに、本人は進歩していると思ったりすることもある。

進歩、上達し、合気道を精進していくためには、道に乗らなければならない。合気の道に乗らなければ、先に進んで行くことができないので、精進も難しいだろう。道に乗るためには、目標がなければならない。だが、目標に近づくにはいろいろな教えに従わなければならず、またいろいろな問題に挑戦して解決していかなければならないのである。

そのためには、合気道を創られた開祖の原点にもどって、合気道や、合気道の修行法を考えてみるのがよいだろう。

合気道は相対で技をかけ合って稽古するが、始めの内は誰でも本能的に、また現在生きている物質文明の環境と影響で、体力や腕力の力に頼って、相手を倒そうとしたり、抑えようとするものだ。だが、だんだんと力で相手を制するのに限界を感じるようになるはずである。

そこで、心で己の体を導き、つかうようにするとよい、と書いてきた。それまで培った体力や技を土台にし、体の上に心をおいて、心で体を導くのである。これを、息、生産びに合わせて技をつかうと、それまで以上の力が出るのである。

しかし、この心で技をかけるのは、腕力や体力でかけるよりも大きい力は出るが、相手が満足し、納得してないようでは、まだ何か問題があるのである。それは、その心に原因があるように思われる。

心で技をかけるのであるが、この心がまだ相手を意識していて、強弱や相対の世界、物質科学の次元である顕界にある、といえよう。この顕界での心では、相手ががんばって、倒れてくれないことになるのである。

この顕界のこころを、霊界のこころにしなければならない、と考える。霊界のこころは勝手につくった言葉であるが、例えば通常(顕界)の目では見えないモノを見る心、ということである。肉眼の目で見るよりもこころで観る、ということになる。

宮本武蔵のいう「観の目」というのは、このような目ではないかと思う。開祖は、お日様を見てもまぶしくない、といわれていた。それで、よくお日様を見るのだが、顕界の目で見れば目を傷めるはずであるが、この幽界の目、つまり幽界のこころで見ると、まぶしくなく見ることができるのである。

また、草や木をこのような心で見ると、すべての草や木が輝いて見える。肉眼で見れば貧相に見えたり、枯れかかっている草木でも、生き生きと輝いて生きているのが見えるのである。これが、合気道が求めている、光る合気の光であろうと思う。

人の顔をこの幽界の心の目で見ると、みんな地球家族、宇宙家族であり、そして誰もが一生懸命に生きているのが見えるのである。特に幼い子供などは純粋に生を楽しんでいるので、みんな輝いて見える。

この霊界の心を持つためには、いくつかの条件、つまりやるべきこと、身につけるべきことがあるようである。

ひとつは、万有万物は一元の本から出て、つながっている、と信じること。これは合気道でいうところの科学である。実際、よく考えてみれば、人はみな家族であり、兄弟であるし、動物植物でさえ親族、同朋ということになるはずである。

そして、人も含め、万有万物は宇宙楽園完成のために生成化育をしているのだ、と見ることである。

もう一つは、見る時に胸を開いていることである。顕界の目では、どうしても胸を詰め、腹に力みを入れて物事を見ているものである。胸を開くためには、胸式呼吸で、息を入れながら見るのである。これには、胸から空気を一杯に吸い込むとよい。

幽界の心で、幽界の光を見ることができるようになると、合気道が目指す光る合気となり、さらなる力と技を生み出すことになるはずである。これは、開祖が次のようにいわれ、保証してくださっている。

「弓を気いっぱいに引っ張ると同じに真空の気(空気)をいっぱいに五体に吸い込むと、真空の気(空気)がいちはやく五体の細胞より入って五臓六腑に喰い入り、光と愛と想になって、技と力を生み、光る合気は己の力や技の生み出す」

顕界から幽界のこころで技を錬磨していけば、光る合気となり、新たな技と力を生み出すはずである、と考える。