年を取ってくると、よい顔というのが分かってくるようだ。若い頃は美形とか色白など外見から判断していたのだが、最近はそのような判断基準で判断しなくなった。そればかりか、そのような判断基準に合わせて顔をつくったり、着飾ったり、かつての自分のように外見を追い求めている若者たちを哀れに思うようになってきた。
最近、興味のある顔は、長年仕事をし、経験を積んできた高齢者で、だいたい80歳以上の方の顔である。若者がつくる顔、不安や不満を抱く顔とは違い、自然につくられてきて、自分の使命・役割を果たした満足そうな顔である。もちろん80歳以上になったら、みんなよい顔になるというわけにもいかないだろうが、本当によい顔は80歳以上にあるのではないかと思う。
よい顔があふれている別の人達がいる。それは、幼い子供たちである。無邪気で、世俗の欲がなく、実によい顔をしている。子供たちの顔は輝いている。自分がその場所、その環境で生きていることを喜び、楽しんでいる。たとえ家が貧しくとも、親が苦労していても、親と一緒にいることで満足しているのである。
幼い子供たちも、よい顔をした高齢者も、輝いていて、光る顔を持っているように思える。ここでいう光とは、電燈やローソクなどの物理的な光のことではない。人の顔が電燈のようにぴかぴか光ったのでは、まぶしくてたまらないだろう。この光は通常の目では見えない光であり、物質的光ではなく、いってみれば精神的なもので、心の光と考える。
合気道は光ある妙技をつくるものである、といわれる。合気道でつかう技は、光を放つようにならなければならない、ということである。光を放つような妙技になることは、開祖が「合気道は自己を知り、大宇宙の真象に学び、そして一元の本を忘れないで、理法を溶解し、法を知り、光ある妙技をつくることである。」といわれている。
つまり、