【第464回】  空を行ずる

合気道を創られた開祖は、そのために、我々が想像もできない努力や苦労をされた。その時代は、勝負して負けたり、不意打ちを食らってやられれば、それで終わりであり、世に出ることもできなかったし、名も残らなかったことであろう。当然、開祖は人に負けないように、日本一強くなろうとされていたはずである。

しかし、ある時、開祖は、強くなろうとか日本一になろうということも、そして、地位も名誉も財産もいらない、といわれたという。これを聞けば、開祖は合気道の稽古を止められるのだ、と受け止めるだろうが、稽古はますます精力的に続けられていた。

もうひとつ、同じようなことを、私自身も道場で体験している。我々が稽古している時、いつものように、大先生(開祖)が突然道場にお入りになって、短いお話をした後で、内弟子に手を取らせて、「もし、力が入るようなら、合気道はやめじゃ」といわれたのである。

それで、大先生の動きを、目を凝らして見ていたのだが、力が入っているかどうかも、それまでと違っているかどうか、違っているとすればどこが違っているのかも、全くわからなかった。大先生は、力が入ったとか入らなかったなどともいわれず、無言で道場を出て行かれた。残った稽古人たちは互いに顔を見合わせて、わからなかったなあ、と確認し合っただけだった。もちろん、その後も、大先生は稽古を続けておられた。

大先生が懇意にされ、尊敬されておられた方の一人に、宗教法人白光真宏会(びゃっこうしんこうかい)の開祖、五井昌久さんがおられた。五井さんは大先生とお話しされて、大先生の合気道の印象をこう語っている。「植芝先生のお話や、合気道についての本から得た私の感じでは、合気道と云う武道の一種と見られる道は、空を行ずる事が根幹であり、そこから生まれる自由無碍の動きであり、大調和、愛気の動きである、と思ったのです。」つまり、合気道の根幹は、空を行ずる事であろう、と見抜かれたのである。

この二つの事から、大先生が「合気道はやめじゃ」といわれた意味がわかったように思う。それは、大先生の合気道は、相手を投げたり抑えたりして、勝った負けたという為の稽古ではなく、空を行ずる稽古・修業に入られた、ということである。大先生の表面的な動きや形は、それまでのもの、我々のものとは変わりないかも知れないが、見えない世界では全然違っていたのである。つまり、稽古の根幹が違っていたのである。

合気道の稽古は、誰でも魄の稽古、見える世界、顕界の稽古から始まるが、魂の稽古をするようにならなければならない、と開祖はいわれている。この魂の稽古に入るには、空を行ずる稽古にならなければならないのであろう。

次回は、この続きで、なぜ空を行じなければならないのか、そして、どうすれば空を行じられるようになるのか、を研究してみたいと思う。


参考引用文献   『武産合気』(白光真宏会青年合気道同好会)