【第462回】  潮の干満とは

合気道の修業に、これでよいという終わりはない。半世紀以上にわたって稽古を続けているわけだが、これでよいということはないだけでなく、まだまだ何かもっと大事な事があるはずだし、それを見つけ、身につけなければいけない、とずっと思い続けてきている。とても終わりどころではない。

これまで力いっぱい稽古して、技も多少は効くようになってきたかも知れないが、どうも満足できないし、また、この路線で稽古していっても、結局は満足できないだろうと思われる。

ではどうすればよいか、どのような稽古をすればよいのか、を考えなければならないだろう。

これまでの稽古を一言でいえば、己の心身や力で技をつかってきたわけであり、己の心身や力を鍛え、それを最大限、そして効率的につかうことが稽古であった、といえよう。

だが、人間一人がやることなど高が知れているのであって、自ずと限界がある。また、体が大きい人や腕力の強い人はそれなりの稽古をすることになるし、小さい人や力の弱い人はそれなりの稽古しかできず、いくらがんばっても限界があることになる。つまり、魄の稽古では限界がある、ということである。どうも、これが稽古に完全に満足することができなかった最大の理由だと思う。

この魄の稽古から、脱皮しなければならない。魄の稽古から脱皮することが、この先へと進むための道であり、次の次元の稽古であり、大げさにいえば、それこそが誰もが求めているはずの真の合気道ではないか、と考える。

それはどのような稽古かというと、己以外の力をお借りして、技を錬磨していくことであろう。そうすれば、体格・体力や腕力にあまり左右されず、人間の力などものともしない“超人的力”で、技を遣えるようになるはずである。

開祖は「日月の気と天の呼吸と地の呼吸、潮の干満との四つの宝を理解しなければならない」といわれている。しかも、これを信じれば天から光明を与えられる、とも言われているのである。天が味方して、応援してくれるわけである。

己の魄ではなく、「日月の気と天の呼吸と地の呼吸、潮の干満」で技をつかうようにしなければならない、ということであるが、今回は、このうちの「潮の干満」について研究してみたいと思う。つまり、合気道の稽古における「潮の干満」とはどのようなものなのか、そして「潮の干満」を技でどのようにつかえばよいか、また、どのように鍛え、身につけていけばよいのかということである。

「潮の干満」は現実世界でも見ることができるので、技にも取り入れやすい、と考えるのである。

まず「潮の干満」は、海が満ちたり引いたり、波が寄せたり引いたりするような心身の動きであると思う。特に腹が足や腿を支点に前後左右、そして、○や∞で自然に動くのが、あたかも地からのエネルギーとその呼吸によって動いているように感じられるのである。

腹が支点・中心となって手足をつかうと、通常、腹は十字々々に動いて、足の上にしっかり載ってくるわけであるが、「潮の干満」の腹は、さらに自然に大きく、そして強く動くのである。この「潮の干満」の力で技をつかえば、相当な、そして、魄のそれまでとは違った、異質の力がでる。

この「潮の干満」をつかうと、地の呼吸を感じることができるようになるので、これを土台にして、天の呼吸を感じ、身につけることができるようになるのではないか、と考える。

開祖は「天の呼吸、地の呼吸(潮の干満)を腹中に胎蔵する。自分で八大力の引力の修行をして、陰陽を適度に現し、魂の霊れぶりによって鍛錬」する、といわれている。この「潮の干満」を腹に入れれば、引力・呼吸力がつくようになり、それで魄の力ではなく、心の魂でやれば、魂の霊れぶりが起こるようになる、といわれているのであろうと思う。

実際に「潮の干満」で腹をつかい、動くと、地と腹と身体が結び、地からのエネルギーが体を通り、息を入れた「干」の際には、すべてのものを吸収するかのような引力が生じるのである。

ここまで「潮の干満」はどのようなものであるかを書いてきたが、残りのテーマ「潮の干満」を技でどのようにつかえばよいか、また、「どのように鍛え、身につければよいか」を書くスペースがなくなってしまったので、次回にすることにする。