【第456回】 魂のひれぶり

合気道は、宇宙との一体や、理想の世の中をつくるための禊を目指す武の道であるが、その目標に容易に到達できないのは、誰もが承知している。しかし、合気道を修業する者は、到達するしないは別として、その方向に向かって稽古しなければならない。なぜなら、稽古の目標を誤れば、開祖植芝盛平翁が目指している合気道ではなくなってしまうからである。

何でもそうだが、目標に到達するのはそうたやすいことではない。それは、やるべきことを順序よくやり進めていかなければならないからである。従って、やるべきことは何かを見つけ、それをひとつひとつ身につけていかなければならないことになる。

はじめは力をつけ、体をつくる魄の養成である。合気道は力がいらないからといって、魄を軽視したり、鍛えなかったりすれば、先へは進めないはずである。開祖も「勿論、肉体即ち魄がなければ魂が座らぬし、人のつとめができない」(『武産合気』)といわれている。

また、開祖は「合気は魄を排するのではなく土台として、魂の世界にふりかえるのである」といわれている。従って、土台になる魄がなければ、次のステップへの魂へのふりかえができず、先へ進めないことになる。

だから、力をつけ、体力をつくって、魄の土台を少しでもしっかりしたものにしなければならない。実際、稽古でも、力が強くて体力のある者は優位な稽古ができることだろう。力は技のひとつである、ともいわれているぐらいだ。

しかし、開祖は、魄で技の錬磨の稽古をし続けていては駄目だとして、次のようにいわれている。駄目だというのは、いずれ行き詰まり、先に進めなくなるということである。

「魄に堕せぬように魂の霊(ひ)れぶりが大事である。これが合気の練磨方法である」。つまり、力や体力の魄に頼って技をかけていては駄目で、「魂のひれぶり」で技をつかうようにしなければならない、そして、それが本質的な合気道の錬磨方法である、というのである。

さて、「魂のひれぶり」であるが、まずは「魂のひれぶり」とは何か、どういうことなのか、ということである。容易ではない。
それを知るためには、開祖が『武産合気』『合気神髄』でいわれていることを調べていくしかないだろう。

「魂のひれぶり」を、開祖は次のようにいわれている。

「魂のひれ振り」とは、一般的に邪心をはらい清めた精神状態をいうようである。これとも関係はあるようだが、合気道では、魄が土台ではあるが、魄(力、体力)と魂(心、精神)が一体となり、しかも魄が下、裏になり、魂が上、表になった状態をいうのである、と考える。つまり、魂が魄をつかうということである。また、「魂の比礼振り」は技を生み出す中心、ということだから、この「魂の比礼振り」で技をつかわなければならないことになる。

次に、どうすれば「魂の霊れぶり」を身につけることができるかである。 まずは、これまで培ってきた魄から、魂へと転向することである。これまで力や体力に頼って技をつかっていたのを、魄は土台として控えさせて、魂(心、精神)主体でやるのである。そして、魂の比礼振りがあるように稽古をしていくことである。

それでは、実際に技の錬磨の稽古で、どのようにすればこの「魂の比礼振り」を身につけることができるか、を検証してみる必要があるだろう。

「魂の比礼振り」の稽古は、まずこの「魂の比礼振り」の感覚を身につけることだと思う。つまり、魂(心、精神)で、受けの相手を導くのである。魄(体と力)は土台として控えさせ、魄で技をつかうのではなく、魂でやるのである。例えば、持たせた手は腰腹と結び、己の中心線に常に留まり、それを最初に動かさずに、先に魂(心)で操作するのである。

さらに、「魂の比礼振り」で大事なことは、息である。息に合わせて魂(心、精神)をつかうこと、体を動かすことである。息に合わせて魂(心、精神)と体をつかうと、力は体の表の腰から背中に集まることになるから、背中から手足にその力を分配し、大きな力が出るとともに、相手の魄と魂と一体となり、その心体を導くことができるようになる。

人の体は陰陽、十字にできているので、背中の各関節を順序よく陰陽、十字につかっていけば、背中の力を効率よく、また増長させてつかうことができる。

魂(心、精神)と魄(体)をこのようにつかうと、背中が比礼のように動く感じがする。特にそれを感じることができるのは、半身半立ち片手取り四方投げ、片手取り呼吸法、二教裏、交差取り、四方投げなどである。手はほとんど動かさず、魂と息でやると、手先でやるのとは異質の、大きい力が出る。これが、「魂の比礼振り」ではないかと思うのである。


引用・参考文献 『武産合気』『合気神髄』