【第449回】 おおらかに

若い頃は何かに追われ、何かに引っ張られるように、せわしなくやっていた。学校でも他の事でも、自分のやりたくないこと、避けたいと思う事ばかりやらされていたように思う。また、何事も少しでも早く、間違えないように、そして効率よく、とやらされてきた。

合気道の稽古も、相手に負けないよう、何とか投げたり、抑えようと、目の色変えてやっていた。今思い返せば、まったくのドタバタ物であった。

若い頃はそれでもよかった。それが社会の為、自分の為になったであろうと思うし、ご苦労さんといってあげたい。

しかし、定年を過ぎて、社会の一線から離れると、昔のような生き方、やり方は必要なくなる。社会的制約がほとんどなくなるから、時間もエネルギーも自由に、自分の思い通りにつかうことができるようになる。

以前と最も違ってきたのは、生きていることの不思議さや有難さがわかってきたこと、また、宇宙(時間と空間)の大きな流れに流れている気持ちよさを知り、些細なことに関心がなくなってきたことである。

その結果、前にも書いたが、他人や自然との境界の壁がなくなり、万有万物との共鳴や一体化が可能になるだろう、と思えるようになった。己と他人、動植物、自然との境界があいまいになり、おおらかになろうとしている。

あいまいになろうとしていることに、時間でも境界をなくしたいと思っていることがある。合気道では、現在だけでなく過去にも未来にも生きることができるし、過現未の稽古をしなければならないと教えられる。だが、過現未を実践しているのは、合気道だけではない。お能の世界も、時空を超えたものである。「今は昔」という始まりの文句などは、その典型的な思想と表現であろう。今が昔になりますよ、と語りかけると、現在と過去があいまいになるのである。

あいまいさとは、おおらかさということにもなるだろう。おおらかさ、あいまいさを阻害するのは、境界の壁であり、人の殻である。明治時代まで日本はあいまいな社会であったが、明治になって西洋文化が入ってきたことにより、「自我の確立」とか「自己主張」がよしということになった、という。(「日本人の身体」安田登 ちくま新書)

日本人は本来、他人や自然、顕界と幽界、今と昔などとの境界があいまいで、おおらかな国民であったはずである。現代はだいぶ、おおらかさが弱くなってきているようだが、西洋諸国にくらべれば、まだそれは残っているし、特に、地方や山間部などにはまだまだ残っているようである。

高齢者の合気道には、このおおらかさがなくてはならないだろう。つまり、他人や自然、顕界と幽界、今と昔などとの境界があいまいになるような合気道、ということである。そして、合気道と出会ったことや、合気道の稽古ができることに感謝すると共に、稽古できることに満足し、さらに、生きていることに満足することであろう。

合気の道に関係ないことにはとらわれず、宇宙の営みに身をゆだね、ゆったりとその流れに乗って生き、精進していくことが大切だろう。


参考文献  『日本人の身体』 安田登著 ちくま新書