【第446回】 コンステレーションと合気道

「コンステレーション」という言葉がある。コンとはwith、ステラは星であり、つまり、星が集まっている星座のことであるが、「コンステレーション」はバラバラにあるものがすべてつながって、全体としてひとつにまとまることをいうようである。

この「コンステレーション」はユング心理学でよく使われる言葉である。「ユング心理学では,心の中の状況と外的に起こることがうまく合致して,全体として何かが星座のようにまとまることをコンステレーションと呼んで,大切に考えている。」(河合隼雄)そうである。

「コンステレーション」とは、一見無関係に並んで配列しているようにしか見えないものが、ある時、全体的な意味を含んだものに見えてくることでもある、という。例えば、複雑極まりない人生模様も「コンステレーション」であるが、それに自分で気がつくことは難しい、というのである。

合気道では、人も星も含めて、万有万物がつながり合っており、その各々が使命を帯び、その使命を果たすべく生成化育をくりかえしている、といわれている。開祖は、星ひとつが欠けても駄目だといわれていたが、それはここでいう「コンステレーション」を乱すことになるから駄目だ、ということであると考える。

確かに合気道の技はひとつひとつばらばらで、関係ないようにも見えるが、全体はすべて星座のようにつながっており、「コンステレーション」である、ということがいえるのではないだろうか。

合気道は武道であるが、この「コンステレーション」を乱すものを取り除く使命を持つ、ということにもなるだろう。

「コンステレーション」というものを最も分かりやすく見せてくれるのは、図形であるという。その典型的なものが、曼荼羅(マンダラ)である。チベットの曼荼羅など、世界全体を一つの「コンステレーション」として読み取り、表現している。ここには、普遍的な人間共通の意味があるらしく、見る人の心の中で何かお話が出てくるという。

河合隼雄さんによれば、「コンステレーションというのは、一瞬のコンステレーションとしてぱっと見せられるんだけども、これを展開していくと物語になる。人間の心というものは、このコンステレーションを表現するときに物語ろうとする傾向を持っていることだと私は思います。」ということである。

モーツアルトは20分もかかるような自分の交響楽を一瞬に聞いたといわれている。この一瞬のコンステレーションが、物語(交響曲)になったということだろう。

これと同じようなことが、合気道開祖植芝盛平翁にもあったのである。「相手を投げる前の瞬間に相手の倒れる姿が見えた。その通りにやると見たと同じように相手は倒れた」ということを、開祖ご自身の口からもお聞きしたし、書物にも残されている。まさしく、モーツアルトと同じようなコンステレーションが、開祖の場合は技になったわけである。

モーツアルトや合気道開祖まではいかないにせよ、われわれ凡人でも、これがコンステレーションだと気づくことができるようになれるだろうし、そうしたいものである。もっと手ごろな気づき方もあるであろうし、合気道の稽古を通して身につくはずである。

「コンステレーション」とは一種の示唆であり、「気付かせ」なのである、ともいう。モーツアルトや合気道開祖のように、一瞬にすべてを見ることができなくとも、その一部でも見えればよいだろうと思う。

稽古に集中していると、これはマズイ、こうした方がよいとか、手の角度をもう少し変えろとか、気持ちの持ちよう、息のつかい方等、いろいろな声が聴こえてくることがある。これを、「気付かせ」といってもよいだろう。この声は心の中からのものであり、相手を納得させ、自分と相手を一体化するために発せられるものであると考える。

つまり、前述のように「心の中の状況と外的に起こることがうまく合致して,全体として何かが星座のようにまとまる」わけである。

これが拡大・進展していけば、さらに大きい星座になるだろうし、一瞬では一部しか見えなかったものが、だんだんと沢山みえるようになり、努力と才能、そして運がよければ、モーツアルトや開祖のように、一瞬ですべて見えるようになれるかも知れない。

合気道の修業の目標は、宇宙との一体化である。宇宙の営みを形にした技を錬磨し、身につけていき、宇宙に近づくのである。宇宙は大きな一つのシステムであり、その各々は他のものとつながっており、そして各自の使命を果たしていると教わっている。つまり、合気道は「コンステレーション」することである、ともいえよう。

ユング心理学では、「コンステレーション」するとは、何もしないということである、ともいわれている。何もいったりやったりしないのであるが、しかし、心は働かせるのだという。活動しないことで、「コンステレーション」するのである。

確かに、合気道でも言葉を発したり、手足をバタバタ動かす稽古では、「コンステレーション」にはならないだろう。心、つまり、魂でやらなければならない、ということになる。

つまり、「コンステレーション」は、合気道でいわれるように、時間的、空間的な次元を超越しているのである。河合隼雄さんは「だから、われわれ人生も、言ってみれば一瞬にしてすべてを持っている。例えば、私がいま話しているこの一瞬に、私の人生の過去も現在も全部入っているかもしれない。」といわれている。これは、合気道開祖がいわれた「わしの持っているこの剣には、過去現在未来がすべて入っている」ということと同じではないだろうか。

「コンステレーション」と合気道は、さらに研究する必要があるようだ。


引用文献 『こころの最終講義』(河合隼雄著 新潮文庫)