人はだれでも年を取る。25歳を過ぎると老化が始まる、といわれるが、ある程度減速することはできても、阻止することはできないだろう。それは自然の摂理であり、宇宙の法則なのだろうから、人はうまく従うしかないだろう。
年を取ってくると、いろいろな弊害が現れてくる。手足の筋肉が減少し、肺や心臓などの内臓が衰えて、胃腸が弱り食欲が減退し、耳が遠く、目も弱ってくる。
もちろん頭の働きも変わってくるだろう。記憶力が悪くなるという以前に、記憶しようという気持ちがなくなる。物忘れ、ど忘れもひどいものだ。
合気道の稽古も年と共に変わってくるが、やはり若い頃と比べると、体力の衰えが大きいだろう。古希を過ぎた今、昔のように一日、3時間も4時間も稽古はできないし、毎日、稽古で暴れ回ることもできなくなった。
しかし、年を取ってよいこともある。まず、年を取ったおかげで、年を取ってよかった、と思えることである。これは年をとらなければ分からないし、できないことである。
合気道の稽古においては、無理しなくなることである。無理すれば疲れるわけだから、自然と無理しないようになる。無理しないということは、自然にやるということであり、法則に則ってやることになる。
そうなると、法則を身につけようとするようになる。若い頃の力に頼った技づかいから、体の中心からの力、息に合わせた力、天地の息に合わせた力、心が先導する力などを遣うための法則を探し、身につけるようになる。
すると、自分を知り、宇宙を知りたくなり、そして、自分を知り、宇宙を知っていくようになる。ミクロの宇宙の己と、マクロの宇宙を、知っていくのである。
そして、宇宙の意思と万有万物がそれぞれ分身・分業でそれぞれの使命を帯び、宇宙の目的に向かって生成している、ということも分かってくる。宇宙がわかってくる程度に、己が分かってくるということも、分かってくる。
さらに、己の能力の限界や馬鹿さ加減も、わかってくることになる。この己の能力の限界と自分の馬鹿さ加減を認めることが、年を取っても楽しく生きるためのポイントではないかと思う。
すると、自分だけでなく、まわりも楽しくなるだろう。老人で偉そうにしたり、俺はまだ体力があるぞ、と誇示する人を見ると、こちらまで気が張ってしまうし、滑稽でもある。
若い頃は競争社会にあって、ビジネス社会でも稽古でも、他人に負けないように、自分を少しでもよく見せよう、強く見せようとしていた。そのために見栄をはったり、無理もしていたようで、けっこう疲れたものだ。
年を取ってきたら、自分を笑えばよい。それで、まわりの人にも笑いを与えればよいのである。
自分のことが分かってこないと、自分を笑うことはなかなか難しいものだ。若者には難しいだろうから、高齢者の特権であろう。
年を取るのはネガティブで嫌だ、と決めつけず、物忘れ、体力の衰えなどの事実を認め、そして、自分をけなし、褒め、楽しめばよいだろう。
そんなことで、次の狂歌のようなものも出てきた。
またバレタ 俺のいるとこ 屁で教え (2014.9.11の臭作)
焼酎を 酒と間違い お燗する これからのボケ 楽しみなり
まだまだと 思ってやらずにいるだろが 寿命はそっと 寄ってくる
飲み屋 横目に 家路を急ぐ 稽古の後は 風呂・ビール