【第442回】 耄碌(もうろく)

古希を過ぎたが、おかげでまだ仕事をしているし、合気道の稽古も以前と同じペースでやることができている。今や日本では30,000人以上が100歳以上であるという。多くの人は、自分はまだまだ年寄ではないと思っているだろうが、若者から見れば年寄に見えていることだろう。

人間、誰でも年をとっていくが、それでも少しでも若くなりたい、見られたいと思うようである。年を若くいわれて喜ばない人はいない。特に、女性はその傾向にあるようで、そのために化粧したり、健康食品を摂取したり、運動している。

年寄になっていくことを、昔は老いぼれるといったようである。老いぼれるとはどういうことなのか。顔にしわがよって、体が縮み、気力が衰え、体の機能が衰えるだけではないだろう。

老いぼれについて、最近読んでいる、「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」で有名な『葉隠』(奈良本辰也=訳編 角川文庫)に次のように書いてあった。

「人が老いぼれると、本来の性質が強く現れるものだ。気力の強いあいだはそれを押さえて隠しとおせるが、衰えてくると、本来の性質が出てきて、恥ずかしい思いをするものだ。性質もいろいろあるが、六十歳にもなると老いぼれない者はない。自分は老いぼれないと思っているところがすでに老いぼれている証拠だ」

これは、自分が正しいと思うと、人の話や奥さんのいうことを聞かずに、我を通そうとしたり、一方的にしゃべったりすることであろう。また、自分の今までやってきたことが一番だと、それに固守して、やりかたを変えようとしなかったり、人の話に耳を傾けないことであろう。

このような老いぼれを、『葉隠』では耄碌(もうろく)といっている。実は、上記の文章の題が「耄碌」なのである。この手の年寄はいることだし、程度の差こそあれ、誰でも老いぼれて耄碌していくことも、確実で間違いない。

老いぼれや耄碌を分かりやすく説明してくれた書籍に、初めてお目にかかったのである。前にも書いたように、『葉隠』は死の哲学書ではなく、まさしく人生の哲学書である。

年を取っていくのは、仕方ないことである。老いぼれて、耄碌していくのも、しようがないことだろう。今できることは、老いぼれて耄碌していくわけであっても、気力と体力でできるだけ老いぼれや耄碌を隠していくことだろう。

老いぼれや耄碌を隠し、遅らせるためにも、稽古を続けることは大事だと思う。ただし、その稽古でも大事なことは、本来の性質が出ないよう、老いぼれとならない、耄碌でない稽古をするようにすることであろう。