【第439回】 霊武と実相武

開祖は「(合気の)道は霊武と実相武に分けられる」といわれている。つまり、合気道は霊武と実相武の要素で構成されているのである。これを簡単にいえば、精神的な面(和合、統一、生成化育、愛)と武術的面(攻撃や防御術)である、と考える。魂の武と魄の武、ともいえるだろう。

「霊武には精神の心と精神の体がつくられ」とあるので、霊武によって、宇宙の意思(魂)に従った心と体がつくられる、ということになるだろう。

さらに、「そしてますます(霊武)を」内的に修業すれば、澄みきりし八光の珠を得ることが出来る」ともいわれている。霊武を精神的にどんどん深めて稽古していくと、八光の珠を得ることができるのである。

「霊は光を放つものである」といわれるのだから、光を放つようになれば、霊武を内的に修業したことになるだろう。つまり、「八光の珠を得る」とは、光を放つということだろう。

次に、もう一つの実相武であるが、「実相武は武魂より生まれ、珠の延長は剣、兵法となる」とある。実相武は戦いや勝負魂から生まれ、体術だけにとどまらず、剣などの得物や兵法の戦術にも及ぶという、幅広く実践的である。さらに、実相武でも八光の珠を得ることができる、ということであろう。

では、この八光の珠とはどういうものなのか、どうすればそれを知覚できるか、ということになる。

開祖は「初心者は八光の珠にあうときは、心眼が塞がり、力が弱って、この珠を見極むることは困難である」といわれているから、逆説的に解釈すると、「心眼が塞がり、力が弱って、この珠う見極むることは困難」になったとき、我々初心者は八光の珠を見ていたことになるわけである。

そうだとすれば、開祖に接した多くの門弟は、八光の珠を見ていたはずである。ありがたいことに、私自身も見たことになる。当時、開祖が道場にお見えになり、気が入ると、開祖の顔を見ることができなくなり、力が抜けてしまうのである。特に、我々が道に外れたことをやって、お説教され、叱られる時などは、八光の珠の光も強かったのだろう。顔を上げて、開祖の顔や八光の珠を見ることなど、だれもできなかった。今考えると、残念なことであった。

合気道には、霊武と実相武の両面があり、その両方を修業していかなければならないだろう。つまり、霊武と実相武が合一するようにならなければならないのである。開祖は「ついには霊武、実相武と合一するときが来るものである」と保障されている。

霊武、実相武と合一するということは、霊武、実相武が表裏一体となり、一つになってしまうことであろう。つまり、霊武でやっても実相武の威力を備え、実相武でやっても霊武の精神性を備えている、ということになるだろう。

霊武も実相武も、共に飽くことなく内的に修業し、そして、それが合一するように修業していかなければならない。


引用文献  「天地の真象を無駄に見過ごすな」 『合気神髄』(合気道開祖・植芝盛平語録 八幡書店)