【第438回】 手をなくす

合気道の技は手でかけるが、手でかけてはいけないのである。これも合気道のパラドックスである。

手でかけるが、手でかけない、とはどういうことかというと、技をかけるにあたって、結果としては、または別な言葉で、最終的には、手でかけるのだが、初めから最後まで手でかけるということではない、ということ、また、手に頼ってはいけないということ、である。

手は体の中でも最も自由に動く部位なので、容易につかえるが、そのためか、人は手を過信したり、誤解している。
手の力は己が思っているほど強いものではないし、もっと強い力を出せる部位や可能性があるのである。

手の力がそれほどでない事が分かりやすいのは諸手取呼吸法であろう。手の力でやっても相手の二本の手の力で抑えられれば動かなくなってしまう。これを腰腹の力をつかえば、相当強い、しかも異質の力が出てくるのである。

異質の力とは、引力のある呼吸力である。この呼吸力は、手先をつかっても出てこない。体の中心であり、重心のある腰腹か、己の体重の抗力が出る地と接している足からの力である。

腰腹と足からの力を背中、肩甲骨、腕、そして手先まで流すのである。手先に力を込めて手先からつかうのとは、逆の力の流れになる。
手先は、最後に動くことになるが、これを故有川定輝本部師範は、「手をなくす」といわれていた。

技をかけるときは、「手をなくす」ことが大事である。「手をなくす」とは、手を最後の最後につかうわけだが、人はどうしても手を先につかいたくなるものである。腰腹や足からの力を手先に集めるためには、まず手をなくしてしまえ、との教えだと考える。

また、「手をなくす」とは、手に頼らないという意味にもなるだろう。例えば、諸手取呼吸法でも座技呼吸法でも、手を意識し、手をつかってやるとうまくいかないもので、相手におさえさせた手を動かさずに、呼吸に合わせて腰腹で拍子を取ってやると、相手はくっついて浮き上がってくるようになる。なれてくれば、四方投げや一教、二教などの技でも、「手をなくした」稽古ができるはずである。

まずは、手を意識した稽古をしなければならないが、次に手をなくす稽古をすることになる。合気道は面白い。あることを一生懸命にやったら、あるところで、今度は逆の事をやるのである。ということは、この後の逆転の稽古が待っているはずである。
これが、合気道の修業には終わりがないということにもなるのだろう。