【第437回】 高齢者の合気道

前回の「高齢者の稽古」では、高齢者の稽古とは毎日の稽古から非毎日の稽古へ、また道場稽古から自主稽古へと変わってくるもの、と書いた。だが、この他にも、高齢者の稽古で変わっていかなければならないことがあるようだ。

どのように変わるのがよいかというと、若い時とは対照的な稽古となることである。つまり、これまで稽古の主役であった体、肉体を、精神、心に変えていくのである。

力で技をかけていたのを、力を表に出さずに、心主体でかけるのである。心で技を遣うことによって、争いは少なくなるし、技の効果も上がってくるものだ。また、体の負担も少なくなるので、高齢者にふさわしい稽古となる。このような稽古なら、年を取っても続けられるだろう。

高齢になって年を取ってくるに従い、スタミナは無くなってくる。若い頃、エネルギーがありあまっているので、エネルギーを消化すべく、何時間も稽古をしたものだが、若い頃はエネルギーが無くなるまで稽古するのがよい。

だが、高齢者になれば、決めた稽古時間を効率的に稽古できるように、エネルギーの配分をしなければならないだろう。一時間なら一時間、二時間なら二時間、途中でダウンしないように配分するのである。これがうまくできれば、スタミナ切れで稽古を断念することはなくなり、稽古を継続できるようになるだろう。

自分でスタミナの配分ができれば、稽古の相手のスタミナもわかり、その配分もできるはずである。若いうちは、稽古相手の息を上がらせて喜ぶだろうが、高齢者になったら、どんな相手でも息を上がらせず、稽古時間をやりきるように導かなければならない。

高齢になっても、若い時のような跳んだり、受けたりするような稽古をやるのでは意味がない。もっと深く掘り下げた稽古をしなければならないだろう。そして、どんどん掘り下げていくのである。それには、掘り下げるテーマや課題を持たなければならないことになる。

テーマを持たない稽古は、若い時の相手を投げて満足するだけの稽古になってしまう。それでは、力があったり、体力や元気のある相手には効かないだろうから、稽古の満足感が失われてくる。そうなると、稽古は長く続かなくなる。課題を持って稽古をすると、前回書いたように、相手ではなく自分と戦う稽古になってくるはずである。

若い頃の稽古は、いうなれば、自分のための稽古である。自分が技を身につけ、強くなり、心身を鍛えるために、稽古するのである。これは当然のことであるし、重要でもある。

しかし、年を取ってくるとだんだん分かってくることだろうが、どんなに強い武道家でも、世間ではそれほど評価してくれないように思える。なぜかと考えると、それは、自分のために稽古して、強いのではあろうが、それは他人には関係ないことであり、逆に他人に危険であると用心させてしまったりするからではないだろうか。

若い時には難しいだろうが、高齢者になってきたら、自分のためだけでなく、世の中のため、人のため、人類のために、稽古すべきだろう。

これは私がいっているのではなく、合気道の開祖がいわれているのである。合気道が普及したのは、合気道は稽古する本人のためだけでなく、世のために、世の立て直しのために稽古する、という思想のためでもある、と考える。

合気道は武道であるから、高齢者の合気道であっても、武道の要素を失ってはならないだろう。それには、世の生成化育を妨げるものを取り除く力を持つことである。肉体的、精神的邪に負けないように、打ち勝たなければならない。

そのためには、どんなに高齢になっても、体を鍛え続けることである。また精神も鍛えなければならないだろう。強い精神で肉体を鍛え、鍛えた肉体を基にして精神、つまり心で邪を取り除いていくのである。

高齢者の目指す修業も合気道であるが、時により合気道の枠が消えてしまう事もあるだろう。例えば、合気道で技の錬磨を続けていくと、武術的な要素までも身についてくる。先祖返りというのがあるが、合気道の技が柔術のような必殺技としても使えるようになるのである。故合気川定輝師範の技を思い出してもらえばよいだろう。

合気道は、柔術の時期も経過しているわけだから、柔術の要素も入っているのである。基本的には、合気道は相手を制することが目的ではないので、柔術的要素を出してはならない。だが、高齢者になってくれば、それが自然と身につき、そしてそれが出てくるようになることもある。その場合は、逆にそれを出さないようにするのが修業ということになるようだ。最初はできるようにしなければならないが、できるようになったら、それを出さない、ということである。

この他に、合気剣、合気杖、突きや当身術なども、ある程度できるようにならなければならないだろう。何せ合気道は武道・武術の基本であると、開祖はいわれている。そうなると、剣道、杖道、空手等ともつながるものであり、合気道をやっていけば、そのようなこともできるようになるはずである。もしできなければ、稽古のやり方に問題があることになるはずだから、それらに結びつくような稽古法に変えてかなければならないだろう。