【第437回】 体との対話

合気道は、相対で技をかけ合いながら精進していくが、そのかけた技は思うようには効かないものである。それで、基本技(形)を繰り返し繰り返し稽古するわけであるが、それでもなかなかうまくかからないのである。だが、回数を多くやると技がかかるようになる、という保証はない。もちろん回数を多くやる必要はある。だが、それは必要条件であって、十分条件ではないのである。

合気道の技を会得するための十分条件など無いことは確かであり、必要条件が無数にあることも間違いないようだ。しかし、有難いことに、その必要条件には法則性があるはずであるから、その法則性を身につければ、程度の差はあっても、誰でも合気道の技は、少しずつではあろうが会得できる可能性はあるわけである。

我々は宇宙の法則に則った技を錬磨しているわけだから、宇宙の法則を見つけ、身につけ、そしてそれを技としてつかえばよいのである。ただし、法則に則った技を遣うためには、体も法則に則った遣い方をしなければならない。

法則に則っていない動きをすれば、体はうまく動いてくれないし、場合によっては、体が拒否するだろう。ひどい場合には、体を痛めたり、病むことにもなりかねない。

技を遣う際には、体が反抗しないよう、体が協力してくれるように、体との対話が重要である。

まず何よりも、自分の体の摩訶不思議を感じることである。手には五本の指が左右にあって、手の関節が隣同士で十字(直角)に働き合うようにできている。首、腰、ひざのところでも十字になり、これらの箇所はそこで折れ曲がるようになっていて、日常の生活では便利なようになっている。だが、技では曲がらないように、十字の螺旋にしなければならないが、筋肉はちゃんと螺旋についているのである。骨や筋肉を見ていくと、何者が何のために創ったのか、魔訶不思議としか言いようがない。

自分の体、人の体が摩訶不思議と思えるようになれば、体に感謝するようになるだろう。そうすれば、体は機嫌を直して、いろいろと教えてくれるようだ。それに気づかなければ、体を鍛えるという名目で、自分の体をかなり粗末に扱ってしまうことになるだろう。

手首や腕、腰や体幹、太腿などは、筋肉がついて太く丸くなったとしても、それだけでは体は喜んでくれないだろう。体には、感謝することである。感謝もせずに使っていれば、肩を痛めて動かなくなったり、手首を痛めたり、膝を痛め、足首を痛めたりしてしまうことになる。

体に感謝しながら、大事に遣わせてもらうようにしなければならない。それには、体の嫌がることをしないことである。つまり、法則に反する遣い方をしないことである。

だが、体はまた、鍛えなければならないものである。体は、それも待っているのである。3日も何もしてあげなければ、体は反乱を起こすだろう。動け動けとイライラしたり、前のように動けなくなったりするかもしれない。

体が喜ぶようにつかうためには、気持ちのほかに、呼吸に合わせて体を遣うことも必要である。呼吸に合わない体の動きをすれば、十分な力が出ないし、技の効き目も小さいだけでなく、体を壊すことにもなりかねない。

体の隅々まで気持ちを通すことが、よい技のためには必須であるが、体の部位に気持ちを通すのは呼吸であり、願望だけでは通らないものである。

呼吸で気持ちを通すようにすると、そこに道ができてくる。例えば、十字にある関節を一本にするためには、各部位を十字で螺旋につかうように、体が教えてくれる。今のはよかったとか悪かったとか、どうすればよいか、等を教えてくれるはずである。

技をかけた時、力が引っかかる箇所があれば、直線的な動きでなく、円の動きにしなさい、ともいってくれる。円でやってもだめな時には、横の円だけではだめで、縦の円も遣わなければ、などともいってくれるのだ。

手をおさえられて動けない時には、手先から動かすと効果がない、まず腰から動かしなさい、と教えてくれたり、まだまだ力不足なんだよ、と示唆してくれたりもする。

しかし、体は一度に多くは教えてくれないようだ。毎回一つの事を、ほんの少しだけ教えてくれるのである。気長に、そして一生懸命に教えを請わなければ、教えてはもらえない。正面打ち一教など、10年以上も体と対話をしながら試行錯誤しているが、まだまだ教えて貰わなければならないことがあるようだ。

相手や相手との接点ばかりを注目する必要はない。自分の体を見て、体と対話し、体から教えてもらえばよいのである。