【第436回】 高齢者の稽古

還暦や古希迎えると、若い時のように毎日、道場に通うことは難しくなってくるものだ。たとえ時間的に余裕があったり、時間を見つけることができても、毎日道場に通って稽古を続けることができなくなったり、また毎日通う気もなくなってくるのだろう。

しかし、稽古は毎日続けなければならない。毎日やらないと、上達・進歩が止まってしまうからである。人はそのように創られているようで、一日で前日のことを忘れたり、上昇リズムが止まったりしてしまうようである。

また、上達・進歩というのは、前日までのものに、次の日の稽古で新しいものを薄紙を積み重ねるように重ねていくようなものである。しかも、この薄紙は毎日少しづつしか増えないのである。進歩したのかな、と気がつくのは、ボール紙の厚さぐらいになってからであるから、相当時間がかかる。

高齢者も、毎日稽古をしなければならない。しかし、毎日、道場に通わない高齢者は、どのように毎日稽古を続ければよいのだろうか。

道場に毎日通わないなら、まずは家などで自主稽古をすればよい。木刀や杖の素振り、四股踏み、柔軟体操等々である。ただし、大事なことは、プログラムを決めて、それを毎日続けることである。やったりやらなかったりするのでは、積み重ねの稽古にならないので、得るところが少ない。毎日、やることによって、心身が何かを教えてくれるはずである。

道場での技のことを考えながらやると、自主稽古は必ず技に結びついてくるものである。道場で発見したことを試すのもよいし、また自主稽古で発見があれば、道場で試してみたくなるはずである。

だが、自主稽古を始めるということには、これまでの道場稽古とは大きく違うものがある。いうなれば、異質の稽古をすることにもなるのである。

なぜならば、道場稽古では、相手に技をかけて何とか倒そうという相対的な稽古になるものだが、自主稽古には相手は居らず、自分自身との稽古、自分に打ち勝つための稽古となる。これは、絶対的な稽古ということができよう。

絶対的な稽古が自主稽古で身につけば、道場稽古も、相手をどうこうするという稽古ではなく、己に打ち勝つ稽古に変わっていくことだろう。相手はいるが、相手はいない稽古になるのである。高齢者の稽古万歳!である。