【第436回】 幽界への稽古

「合気道は形はない。形はなく、すべて魂いの学びである」と、開祖はいわれている。しかし、形がないから、好きに適当にやってよいということではない。ここでいわれている真意は、自由自在に技がでるように魂を錬磨していかなければならない、ということであると思う。

だが、合気道を武道として、つまり、相手を納得させるような技を自由自在につかう、などということは容易ではない。だから、我々合気道人は四苦八苦する訳である。長年稽古を続けていると、形のないものを学ぶためには、まず形、つまり、目に見えるものを通して学ばなければならず、また目に見える結果の形を出さなければならない、ということがわかってくる。

始めは、頑丈な体で多少強く長く投げられても耐えられるような体をつくり、そして、それに柔軟性を加え、相手をくっつける引力性のある体をつくっていくのである。

このような体をつくることによって、我慢強い精神力や向上心、探究心という精神力、心が鍛錬される。心身が鍛えられてくると、今度は呼吸力がどんどんつくようになるし、宇宙の法則を身につけるようになる。

この辺までは、自分でも見えるし、稽古相手や周りからも見えるから、魄の稽古ということになる。だが、合気道はこの魄を土台にして、魂の稽古に入らなければならない。魂の世界とは、見えない世界である。

合気道では、世界には顕幽神の三界があり、顕界はこの世の世界、幽界は仏教の世界、神界は魂の世界であるという。水の世界にも、そして合気道にも、三界はあるといわれる。また、「合気道とは、過去―現在―未来は宇宙生命の変化の道筋で、すべて自己の体内にある。これらをすみ清めつつ顕幽神三界と和合して守り、行っていくものが合気道であります」とあるのである。

これまでの稽古である魄の見える顕界から、次の見えない世界の稽古へと転入しなければならないことになる。神界は魂の世界であり、見えない世界であるが、顕界から直接入りこむのは、我々凡人には難しいというか、不可能といってもよいだろう。

だから、まず幽界から入るしかないと考える。幽界とは仏教、つまり仏の世界であるので、人間が関われる世界だからである。

幽界があるのか、そして、幽界に入れるのか、と疑問を持てばそれまでだが、開祖は「顕幽神三界も、また我々の稽古の腹中に胎蔵しております」と保障してくださっている。

また、「自己の立て直しができて、和合の精神ができたならば、みな顕幽神三界に和合、ことごとく八百万の神こぞってきて協力するはずになっております」とまでいわれているのである。あとは、幽界のあることを信じ、それを見つけ出すだけだし、技に出せるようにするだけである。

幽界とはどういう世界なのか、教えてくれる典型的なものに「お能」の舞台がある。顕界に生きている人が、幽界に生きるのである。舞う人の所作の速度や拍子は超スロー、しかし、心は自由自在。しかも心の深いところで交流し、顕界の言葉よりも感動を与えられる。お能は、魄が後ろに控え、心が前に出るものである。

お能を観ている人は、顕界を離れ幽界に入りたいと意識、無意識で感じて、観に来るのだと思う。だから、観ている人の多くは、幽界の眠りに入っていくのである。現代劇の魄をテーマにした舞台を見て、寝入ってしまう観客は稀であろう。

歌舞伎でもお能に近い出し物もあるし、オーケストラの演奏や弦楽四重奏などでも、演奏家も観客も顕界を離れたくて、演奏したり聞きにきたりするのであろう。おそらく、すべての優れた芸能や絵画などは、幽界に入っていると思われる。まして合気道において、である。合気道も顕界の稽古をしっかりしたら、さらに幽界への稽古に入るべきだろう。