【第433回】 無欲

年を取って先が見え始めている高齢者が、株が上がった下がった等と金儲けの話で一喜一憂しているのを見るのは、どこか不自然であるし、哀れに思える。

昔話にも欲深いじいさん・ばあさんと、欲のないじいさん・ばあさんが出てくるが、欲深いじいさん・ばあさんは悪いじいさん、ばあさんで、最後は欲のないじいさん・ばあさんが幸福になり、欲深い方には罰が当たることになっている。

「花さかじいさん」「すずめのお宿」などがその例であるが、外国のお話もおそらく同じであろう。これは、人は無欲になっていかなければならない、という教えであり、それが自然であり、地上楽園への生成化育に則っているから、ということだと思う。

若いうちは、無欲にはなるのは難しいだろう。なぜならば、やるべきことや、獲得しなければならないこと、経験しなければならないことが、たくさんあるからである。しかも、物質文明の社会、競争社会でやっていかなければならないのである。若いうちは、それをやってはじめて、本当に自分のやるべきこと、やりたいことへの道が拓けるだろう。

開祖は「世の中は、すべて根本は経済であります。経済が安定してはじめて、そこに道が拓けるのであります」といわれているから、まずは経済の安定をはからなければならないはずである。そうなれば、おそらく無欲などといっていられないことだろう。

高齢になっても経済が安定しなければ、まずは経済の安定を図らなければならないわけだが、合気道の稽古に通っている人は、経済は安定していると考えてもよいだろう。あとは、合気道の精進をするだけである。

しかし、精進するというのも欲であるから、いじわるじいさん・ばあさんと同じ、ということになるのだろうか。それは違うはずである。いいじいさん・ばあさんも生きているかぎりは、少しでも長生きしよう、楽しく生きたい、と思うことだろう。それが使命であり、人生であり、自然なことである。そして、最後は、やりきった、真から生きた、と満足して逝ったことだろう。それは欲ではないし、自然であり、生成化育に則っているのだから、無欲といってもよいだろう。

合気道も、かっこよく見せようとか、うまくなって金儲けしようとか、有名になろう、などという気持ちでやれば、欲張りじいさんのように、よい結果にはならないだろう。よい結果にならないというのは、つまり、本当の上達はない、ということである。

もちろん、若いうちはそのような欲によって、稽古をしてもよいだろうし、合気道で経済を安定させようと思うのなら、大いに欲張りになるのもよい。

長年にわたって合気道の稽古をし、高齢になったら、稽古以外のことには無欲にならなければならない。開祖は「一つの道を貫くためには、他の事には無欲になって進まなければなりません。無欲になった時こそ絶対の自由となるのであります。世の中はすべて無欲の者の所有になるのであります」といわれている。合気道を精進したなら、それ以外の事には無欲になるようにしなければならないのである。

ただ、高齢者になって無欲になるのは、そう簡単ではないだろう。酒・女・金などの誘惑もあるだろうし、物質文明の競争から抜け出すのは難しいものだ。禅のお坊さんが無欲になるために長年修業していることからも、その難しさはわかるだろう。

合気道は、無欲になるために稽古しているのである。なぜならば、合気道は禊(みそぎ)であるからである。禊とは、宇宙の心ともいえる言霊と響きあい、宇宙と一体化できるために、それを妨げる精神的なモノと物質的なモノを取り除くことである。

合気道の稽古をすることによって、汗をかいて血液をきれいにしたり、人体のカスを取り除き、また、道を貫くために邪魔になる欲を取り除いていくのである。

合気道の稽古で、禊をして無欲になっていけるのである。合気道は動く禅といった人がいたというが、合気道はすばらしい。そのおかげで、いじわるじいさんにならずにすみそうである。