【第431回】 いい顔付きにしていきたいものである

合気道を半世紀もやって古希を過ぎると、自分の事、世の中の事が、少しずつ見えてくる。合気道のおかげで、自分はどこから来て、どこに行くのか、というそれまで抱いていた疑問もおおかた氷解したし、長年生きてきたことで多少の経験と知恵がつき、世間の問題の根源や若者の問題なども見えるようになってきた。

世間にはいろいろな問題があるが、その根本的な原因は心であると思う。これまでは、合気道の教えにあるように、物質文明であり、力がものをいう魄の社会であったわけだが、それでは人は満足できなくなったからであろうと考える。

これまでのように、お金を得ればよい、そのためならいくら犠牲を払ってもよいとか、お金や財のある者はない者よりも立派である、ということが、信じられなくなってきたわけである。

お金や財がすべてでないことは、合気道を修業している者には明白であろう。道場に入れば、金持ちも貧乏人もない。お金を出せば段が上がるという訳でもない。入門料に会費、それに稽古着代があればよいのである。

合気道の世界以外のことはよく知らないが、いずれにしても、一般社会では金、金、金と目の色を変え、無理をし、法を犯しても金を得ようとするなど、滑稽である。いくらお金があっても、世間では妬まれこそすれ、褒めてももらえず、そのお金に関心もないだろう。お金があって、褒めてもらえるのは、そのお金を社会に還元したり、世の中のために有意義に使ってくれた場合である。

それにひきかえ、心は人や社会に影響を与える。心は態度や行動に表れるし、顔にも表れる。

年を取ってくると、心に引かれるようになる。特に、幼い子供と80歳以上の高齢者はよい。幼児が親や友達と一緒に遊んでいるときの幸せそうな顔は、なにものにも代えがたい。この子たちのためによい社会を残さなければならないと思うし、楽園建設の生成化育のために、自分の使命を果たさなければならないと思うのである。

何かをやり遂げた、合気道的に言えば、使命を全うした高齢者の仕事や発言には、感銘する。また、そのような高齢者の顔はすばらしい。威厳があり、生きるということはこんなものだ、人間とはこんなものだ、と示してくれるようである。

りっぱな顔をしている高名な90歳、100歳の方でも、若い頃の写真を見ると、それほどではない方もけっこういるだろう。彼らだって、初めからよい顔をしていたのではないようである。人は年を取るに従って、顔がよくなる、つまり、心が変わってくる、ということだろう。

「50,60は鼻ったれ小僧」といわれているが、古希を過ぎたら、鼻ったれ小僧を抜け出して、よい顔になっていくように努力すべきだろう。努力するとは、使命を果たしていくこと。使命を果たすこととは、一生懸命にやることである。

自分の使命を一生懸命やっていけば、自分に満足し、生きることに喜びを得、心も満足することになり、その結果、顔つきもどんどんよくなるはずである。

幼児の顔は、残念ながら、大きくなるにつれて厳しい大人の顔になっていく。だが、彼らが素直な心で、よい顔付を少しでも保てるように、我々大人ががんばらなければならないだろう。そのために武道があり、それをわれわれは修練しているはずである。

武とは、地球楽園建設のための生成化育を妨げるものを止める(鉾を止める)ものであるからである。

高齢者になったら、顔つきがよくなっていかなければならない。合気道の稽古と己の使命を一生懸命に果たし、心を満たしていけばよい。そうすれば、稽古相手とは敵ではなく己であり、友、教師であることや、人も含めて鳥獣魚虫などの万有万物は家族であり、そして万有万物は宇宙生成化育のために使命を果たしていることが、見えてくるはずである。満員電車で押しあいへしあいしている乗客や、街を急ぎ足で歩いている人たちも、各々使命を果たすべく、がんばっているのである。

そのような心を持って周りを見れば、みんながんばっているな、と応援することだろうし、敵などいなくなるものだ。競争相手ではなく、同志ということになるから、争う必要もなくなるわけである。戦いは、他とではなく、自分自身が相手となる。自分に負けないよう、自分の使命に打ち勝つように、していくのである。自分に勝っていけば、よい心持ちになり、よい顔つきになるはずだ。

さらに、もう一つは、満足と感謝である。他人と比較してどうこうするのではなく、精一杯やっている自分に満足し、自分を支えてくれているものや事に感謝するのである。生まれてきたこと、生きていることをはじめ、家族、日月、草木、食べ物などなどに、「ありがとう」と感謝するのである。

そして、満足することである。事実を踏まえて、自分を見、自分の状況を考えれば、たいていのことに満足できるはずである。正常に歩いたり、動けるだけでも、満足できることで、足を痛めたりすると、歩ける有難さがわかるだろう。

元来、三度の食事が取れれば、満足しなければならない。上京した頃はじゅうぶん食べることさえ難しかったので、学生の時の望みは、将来、腹いっぱい食べられるようになることであった。

顔つきがよくなっていくように、年を取っていきたいものである。お迎えが来た時の顔が最高の顔にしたいものである。