【第425回】 思想と実践

合気道の基本的な稽古法は、基本の技(形)をくりかえし稽古する形稽古である。最初はこの形稽古で体の節々をほぐし、合気の体をつくるのである。開祖は「合気道の技の形は体の節々をときほごすための準備」である、といわれている。

次に、この形稽古で技を練磨していく。技を身につけていくことにより、宇宙の営みを身につけ、宇宙との一体化を図っていくのである。

しかし、技を見つけ、身につけていくのは、容易ではない。それに、見つけたと思った技が正しいのかどうか、判断することも難しい。その技が正しいかどうかは、基本的には技をかけた本人が決めることであるが、客観性がないので、本人自身も懐疑的になるはずである。

技の良し悪しは、少なくとも技をかけた本人と、その技を受けた受けの相手にはわかることである。自分が満足し、相手も了承すれば、かけた技はOKということになる。

ちなみに、受けの相手とは自分の一部であり、ジャッジであり、サポーターであり、そして先生ということにもなるわけである。相手を、倒す対象にしたり、敵として見てしまうと、相手から得るものも得られないことになる。それ故、稽古相手とは、感謝の念と愛の心で稽古しなければならない。

横道にそれたが、本題に戻ると、ではどうすれば自分も相手も納得する技がつかえるようになるか、ということになる。

さらに、その法則は普遍性があるはずなので、一つの形で正しければ、他の形にも通用されなければならない。

かけた技で相手が喜んで倒れてくれて、そしてその技には法則性があり、思想があって、さらにその技(心、息、拍子)で他の人(ある程度の身体的レベルに達している稽古人)が同じように実行し、同じような結果が出れば、それは技である、ということができるだろう。

例えば、坐技呼吸法で、天地の呼吸を取り入れ、持たせた両の手を自分の腰と結び、息を縦に(腹式呼吸)吐きながら、相手の中心(腰腹)に結ぶ。すなわち、天之浮橋に立つのである。ここから、立てている手の平を上に向くように返しながら、息を吸っていく。相手がつかんでいる接点から動かすのではなく、その対照となる腰から動かし、力が腰、背中、胸鎖関節、肩甲骨、上腕、腕、手首と流れるようにする。手首に力が集中してきたときは、手の平が完全に相手に向かうまで返っている。つまり、手の平は、縦、横、縦、横の十字の円になるのである。

これで、受けの相手が小気味よく浮き上がってくる。また、拍子をつければ、相手の体重が一瞬ゼロになり、二者が完全に一体化する。ここからは、受けの相手が自分から倒れることになるので、こちらがどうこうする必要はない。これが、合気道の技は相手を倒すのではない、ということである。倒す事を目標にやっているうちは、まだまだ魄の稽古の段階ということになる。(もちろん、これも必要なので、しっかりやらなければならない)

合気道の技には、法則を伴う思想がある。思想に則って稽古を実践しなければならないが、それに則ってやれば、技は誰にでもできるようにできているようである。つまり、合気道は思想と実践の科学なのである。