【第423回】 心で

最近は、稽古をできるだけ力に頼らず、心でやるようにしている。すると、技が変わってくるだけでなく、モノの見方、聞き方、味わい方、感じ方などまで変わってくるようである。これも年を取ってきたせいかも知れないと思うので、高齢者の項で書いてみよう。

現在、稽古で培っているのは、魄を裏に控えさせ、魂を前に出して技をつかうこと、つまり体力や腕力などの魄の力に頼らず、精神や気持ちなど心で技をつかうようにすることである。自分の気持ちで、相手が倒れるようにするのである。もちろん、心だけでは決して相手は倒れてくれない。だから、力もつかわなければならない。

心で技をかけていくようにすると、相手の心の動きや、相手の心との同調などが、力でやっていた時よりもわかるようになる。例えば、こちらが相手を倒してやろうとか、きめてやろうなどと、少しでも力を込めたり、気負ったりすると、受けの相手はその心を察知して、自分の体に臨戦準備の指令を発する。だから、心は宇宙の営みに則ったつかい方をしなければならないことがわかる。

心で技をつかうようにすると、相手を見るのも心で見るようになる。大きいとか小さいとか、強そうだとか弱そうだなど、見えるものを見るのではなく、外から見えない心を見ようとするようになるものだ。

道場でそれができるようになれば、道場の外でも、人をそのように見ることができるようになるだろう。

人を外見でなく、心を見るようにしていくと、犬猫のような動物、樹や草などの植物にも、心を感じるようになる。きれいな花に感激するのではなく、その心に感激、感動するのである。

ぱっと咲いてぱっと散っていく桜とはちがって、目立たない樹木や草花も沢山あるが、外見が桜の花のように輝かなくても、心で対話しながら見ると、すべての植物にすばらしさを感じるのである。目立たない植物でも、雨風や寒暖に耐え、新芽を出し、葉を繁らせたり、花を咲かせて、散っていく。誰に頼まれたわけでもないのに、それを毎年繰り返しているのである。

開祖はよく太陽をご覧になっておられたようだが、太陽の外見ではなく、その心をご覧になっていたのではないだろうか。太陽の姿を通常の目でみると、目を傷めることまちがいないのであるが、自分の心で太陽の心を見なければならない。心で見ると、ギラギラした眩しさがなくなり、やさしいお日様になる。このとき、お日様と心がつながったという感じがして、お願いなどをする。お月さまやお星様も、心で見て、心に結ぶようにしている。

また、耳で聞くことも変化してきたようだ。発せられる声や息を聞きながら、それが発せられる心を聞くようになるのである。声の響き、調子、態度、行動などから、話し手の心を知り、その心と結ぶのである。偉そうな話しぶりでも、感動しないどころか、反感を覚えたりすることもあるものだが、まだ言葉にもなってないような子供たちの声には、素直に感動させられる。些細なことにも感動したり、思わず涙がこぼれたりするのも、心を聞くようになったからだろう。(年のせいとは思いたくないが)

人の話の聞き方が変わってくれば、その心で動物のいうことが聞こえたり、そして、植物のいっていることも聞こえるのではないだろうか。

食べ物の味わい方も変わってきたようである。これまでは、ウマイの、マズイのといいながら食べていたのが、心で食べるようになってきた。食べるものに感謝し、そして、生成化育への協力要請をするのである。

まず、食べ物を今、自分が食べていることに感謝する。肉や野菜が自分に食べられるために殺されたわけだが、それは自分の地球楽園・宇宙天国建設の使命のために食べるのであるから、是非お腹に入って、その使命達成のために協力してくれとお願いするのである。

そのように、心で食べると、食べているものからなんとも言えない気持ちのよい気体が口に充満して、それが力になってくれるような気がする。そして、これで食べ物が納得してくれ、協力を約束してくれるように思えるのである。

心で食べないと、食べ物は成仏できないし、協力もしてくれないだけでなく、反乱を起こし、体を害するのではないかと思う。

感じ方も、当然変わってくるものだ。合気道の場合は、受けの相手の攻撃からはじまるから、相手と触れるわけだが、触れた感じ方が違ってくるのである。それまでは、力が強いとか弱いとか、手が大きいとか小さいなど、魄を中心に感じていたが、相手の心を感じるようになる。そして、その接点を通して、心で相手の心と結ぶようになる。そのためには、隔たりのない心と体づかい、つまり天之浮橋に立たなければならないことがわかってくる。

見えるものではなく、心で技をつかい、生きていくためには、二つの前提がある。一つ目は、万有万物はみんな協力し合って、一つの目標に向かって生成化育を繰り返していることを知り、二つ目は、万有万物はすべて一元の大神様に結びつく一大家族である、ということを知ることである。これは合気道の教えであり、おそらく合気道にしかない教えであろう。

合気道を修行するにあたっても、若い内は魄の稽古を一生懸命やり、そして、年を取ってきたら心で稽古し、そして、心が表になって生きていかなければならない、と考える。