【第422回】 課題をもって稽古

合気道に入門した若い頃は、毎日、2時間以上は稽古したものだ。道場が学校の近くであったこともあってできたと思うが、やはり稽古が楽しかったからだろう。楽しかったというのは、世間でまだよく知られていなかった新しい武道をやっている、という誇りと、若いエネルギーが気持ちよく発散できたからだと思う。

誰でも、習い事の初めは新しい事を覚えるのが楽しくて、迷わず稽古を続けるものである。合気道でもそうだった。形を覚えたり、力をつける、体を柔軟にする、また、エネルギー発散や気分転換などができる、などあって、迷うことなく稽古を続けることができた。

しかし、稽古を長く続けて、形をある程度覚え、力もついてくると、以前ほどには稽古への意欲がなくなってくる。それでも、それまで通りの稽古をしていると、やがて厚い壁にぶち当たることになる。壁とは、上達の停止、自分の限界を感じる、怪我や病気、無気力、などである。

稽古への意欲を保ち続け、さらに意欲を持って厚い壁を通り抜けるためには、これまでと違う事、質の違う稽古をしなければならないだろう。

その稽古とは具体的にいうと、「課題をもった稽古」ということになる。合気道の技は宇宙の法則に則っていなければならないわけだから、その法則を見つけなければならない。そして、見つけたと思った法則が正しいかどうかを試し、検証しなければならない。さらに、それを身につけていかなければならないのである。そのひとつひとつ、また、その細分化したもの、などが課題となる。

合気道は、初めのない初めから、宇宙ができ、地球ができ、万有万物が生まれるまでの宇宙の営みを感得するものである、といわれるものだから、宇宙の理と宇宙の心も感得しなければならないだろう。例えば、自分は何者なのか、どこから来てどこへ行くのか、万有万物の生成化育、人は現在だけでなく過去にも未来にも生きていること、など知るべきこと、知りたかったことがあるはずである。

今度は、これらを課題として、技の練磨で課題を解決していくのである。何せ128億年にはじまった無限大の宇宙が対象であるから、課題も無限である。課題が枯渇する心配はない。また、課題は自分が出し、自分で解決するのだから、他人を気にすることもない。マイペースで続けられるわけである。

いうなれば、それまでの稽古は魄の稽古であり、見えるものを対象にした、他との勝負や比較の稽古、といえるだろう。だが、魄の稽古は、永くは続かないはずである。

ここからは魂の稽古であり、見えないものを対象にした自分との闘いの稽古である。宇宙と仲よくし、宇宙と一体となる稽古である。これまでの魄の稽古よりも、積極的な稽古といってよいだろう。

この稽古は楽しいはずである。宇宙規模の稽古であり、自分との戦いでもある。宇宙がわかってくるし、己もわかってくる。宇宙も己もわかるようなものは、合気道以外にはないと考える。稽古をやめられるはずがない。