【第421回】 修行には終わりがない

合気道の修行には終わりがない。修行は体の続く限り、続けなければならないものである。

ここでは、なぜ修行には終わりがないというのか、なぜ生きている限り続けなければならないのか、を考えてみたいと思う。

合気道は、宇宙との一体化が目標であるなど、一生の間に到達できるかどうかも分からないものに挑戦するものである。いくら年月があっても充分ではない。だから終わりがないのだ、ということもできるが、もっと違う意味でいわれているように思える。

宇宙との一体化ができるかどうか分からないし、これまでの例を見ても、せいぜい開祖のような方しか達成できないだろうから、目標があっても終わりまでの修行は難しいだろう。

合気道の目標は宇宙との一体化、宇宙になることだが、そのためにも、いろいろと大事な事を知りたくなるものだ。例えば、自分は何者なのか、自分はなぜ生れてきたのか。どこから来てどこへ行くのか、等などである。人には、自分にとって是非知りたい事、やりたい事がある。それを知ること、やる事を、真理の追究といってもよいだろう。

合気道も、真理の追究をしていることになる。合気道で真理とは、宇宙の法則、宇宙の条理、ということである。合気道は、宇宙の法則に則った技の練磨を通して、宇宙を身につけていっているのである。

真理の追究をしていけば、成果が現れてくる。追及すればするほど、成果が出てくる。成果が出ないのは、追及が足りないか、追及の道を間違えているからである。技の成果が出ないのも、真理の追究が足りないからか、追及の方法を間違えているから、ということになる。

ある程度の成果が出ると、さらに真理を追及しようとするだろう。真理を追究していき、すばらしい成果、役に立つ成果が出ると、さらに深く追求しようとするものだ。さらにさらに追及していくと、どんな成果が出るのか、ますます楽しみになるだろう。だから、どんどん追及していくのである。

長く追求していけばいくほど、すばらしい成果が出るはずである。60,70歳の成果などでは、まだまだであるようだ。すると、80,90歳での成果が楽しみになる。

100歳まで真理の追究ができたとしたら、どんな成果が出るか、想像もできないだけに楽しみである。だから、いくら年を取っても、どんどん真理を追究しようとするのである。

合気道の真理の追究も、どんな成果が出るのか楽しみだから、やめられないのである。だから、修行には終わりがないといわれるのだ、と考える。