【第419回】 道場と社会

今や合気道の本部道場に半世紀以上も通っていることになるが、その間に社会が変化したのと同様に、道場も変わったようである。社会の変化としては、建物や交通インフラなどがあげられるが、ここで興味があるのは人間の方である。

社会における人間は、大きく変わったといってもよいだろう。大きくというのは、それまでの変わる速度よりも速いし、質的にも変化し、価値基準も変わった、という意味である。

50年前の日本は貧しかった。その頃は腹いっぱい食べるのが夢だった。大学など行きたくても行けない若者が大勢いたし、もちろん海外に出かけるのも難しく、外国人と接することなどほとんどなかったである。

そのような状態にあった日本人であるが、一生懸命に働いて、少しでもよい暮らしをしたいとがんばっていた。

ありがたいことに、私は東京の大学に通うことができた。アルバイトもし、腹を減らしながらも、何かを探していた。それは、「人生とは何か」「自分は何者で、どこから来て、どこにいくのか」ということであった。大学では、そんなことは教えてもらえなかったので、学校の先輩や、他の学校の仲間と、アルバイトが終った後などに、この件について真剣に議論し合ったものだ。それでも、満足できるような結論は見出せなかった。

そして、ある時、偶然に合気道を知り、道場に通うことになった。その頃はまだ、学生があまり合気道を稽古してない時代だったので、道場には学生や若者の姿は少なく、年配者がけっこう多かった。稽古人も今のようには多くはなかったが、面白い人が多く、個性ある人達ばかりだった。

その頃の道場は平屋の古風な建物で、開祖もまだご健在だったし、厳しい雰囲気が漂っていて、道場に入ると気持ちが引き締まったものである。女性がほとんどいなかったこともあるが、今のようにおしゃべりする者もいなかった。ましてや、開祖が居られる時などは、全員に緊張感がみなぎっていたものだ。

多くの稽古人は開祖に心酔し、合気道から何かを学ぼうとしていた。また、合気道の入門前から、あるいは並行して、何か別の武道や習い事、宗教、それに食養会や西式健康法、一九会などやっていた人も多かったので、そのような話を聞いたり、それらの団体に連れてもらったりと、いろいろと勉強になった。

道場には社会の凝縮したエキスが集まっているようにも思えて、道場に行けば社会がわかるような気がした。大学の授業にはあまり行かなかったが、毎日、道場には通って稽古した。また、稽古の合間の時間にも、先輩や、また開祖からも、いろいろなお話を伺うことができたのである。

改築された今の道場は、手狭に感じられるくらい盛況となった。そして、やはり社会を反映するのか、社会の現象が道場にも現れているようである。あえていえば、以前と違って、好ましくない面もより多く見受けられるように思える。

例えば、現代人は少しでも苦労を避けて、楽をしようとする傾向がある。稽古にもやはりそれが見られるようである。楽をして上手くなろうとする傾向である。また、現代は社会の荒波を乗り越えて、勝ち抜かなければやられてしまう社会になっているから、稽古でも相手に負けないようにとがんばり、相手を敵と見てしまうようになってきている。

道場で稽古している姿を見ると、その人が社会(会社や家庭)でどのような生き方を、どの程度にやっているかも、想像がつくものである。おそらく稽古の姿と同じように、職場でも働いたり、家庭でも生活しているのであろうと思う。

しかし、道場での稽古法や、技や業、思想などが変われば、社会での自分も変わってくるはずである。おそらく合気道の道場に通う稽古人は潜在的に、道場で自分を変え、社会でそれを生かしたいと思って入門したのではないだろうか。ただ、本人がそれに気がつかないでいるだけではないかと思うのである。

道場では人間本来のものを得たい、と思っているのではないだろうか。おそらくそれは、合気道以外では得られないものであるだろう。そして、それを得ることによって、自分を変え、自分を成長させ、さらに、社会に貢献できれば幸せである、と考えるのであろう。それは、つまり、社会で身につけてしまったケガレを、道場で禊ぎ、それを社会に還元することではないだろうか。 

時代は変わっても、道場は社会をよくするカムロギであり、神人養成所でなければならないだろう。これが、開祖がいわれている「合気道の使命」ということになるのではないか、と思うのである。