合気道の稽古は、体術中心になっているようである。だが、武道ということだけでなく、(あらゆる攻撃に対処する)技を上達させるためには、得物による稽古も不可欠であると考える。剣が振れないのに、太刀捌きや太刀取りができるわけがないだろうし、杖を扱えなければ、杖取りもできないだろう。得物の稽古は必須である。
しかし、剣や杖の振り方を教えれば、攻撃法を教えることになるので、原則として合気道では教えることはできないことになる。だから、自分で稽古するしかない。
合気道は体術主体であるが、剣や杖が扱えるようになると、体術も変わってくるものだ。一般的に、体術の技の上手な人は、それ相応に剣や杖の扱いも上手であるといってよいだろう。その典型は、もちろん開祖植芝盛平翁である。
体術の技と得物の扱いは、互いが影響し合い、助け合うという、相乗効果がある。得物を扱って会得した体づかい、息づかいなどを、体術に取り入れ、体術で得物をつかうようにするのである。つまり、素手でも得物をもっているように、合気道の技で動くのである。これを合気剣、合気杖というのであろう。
開祖はこれをさらに深めて、「一つの技を生みだして、一つの剣をもつ。その剣とは宇宙の営みに到るマツルギの道である。使命の上の健康法である」といわれている。
しかしながら、合気道における剣と杖には、さらに意味があるようである。体術においても、剣と杖(槍)の扱い方によって技をかけないと、技が効かないのである。
例えば、一教表で切り下ろしておさえた相手の腕は、槍の動きで崩さなければならない。諸手取りや片手取り呼吸法は、基本的に槍足でなければならない。また、相手に手を取らせる際にも、槍で突くような動きと体勢でなければならないだろう。
技は手刀で切ることが多いが、剣で切るようにしなければならない場合も多いし、時には槍で突くことも必要である。
開祖は、剣や槍(杖)で合気道の技を示して下さったし、『合気真髄』『武産合気』には、剣と槍という言葉がしばしば使われている。
また、道歌にも歌われている。