【第404回】 継承

合気道は文化であり、人類にとっての貴重な遺産である、と思う。文化は、人間が生きていく上での楽しみや意義を教えてくれるものである。合気道は心と体を鍛えてくれるだけでなく、人とは何ものなのか、どこから来て、どこに行くのか等、人類の永遠の疑問への解答を与えてくれる。

よい文化は継承されなければならない。価値のないものは消滅し、価値があるものは継承されるのが常であるが、合気道も是非、継承され続けて行って欲しいと願っている。消滅するとしたら、価値がなかったことになってしまうし、一度、消滅するようなことでもあれば、二度と同じものは出てこないのが、世の常であるからである。

それ故、合気道を修行するものは、後世、後人に合気道を継承する事も頭に入れて、稽古していかなければならないと考える。

しかし、後進・後輩に継承するのは、そうたやすいことではない。自分が先人・先輩だからというだけで教えるのは間違いだし、そのようなことで継承されるはずがない。

やるべきことをしっかりとやっていかなければ、後輩に一時的に受け入れられるかもしれないが、身につかなかったり、忘れられたりして、次の代、またはその次の代へと継承されないことになるだろう。

まずは、自分が先人の師範や先輩から、しっかり学ばなければならない。はじめはどの師範、先輩などを問わず、すこしでも多く盗み、吸収しなければならないだろう。この段階で先人のえり好みなどしていると、後で後悔することになる。とりわけ、自分の苦手な師範の時間には、稽古するように努めたり、苦手な先輩にお手合わせをお願いするのがよいだろう。

ただ、本部道場で稽古をする場合は、稽古人の数も多く、指導の先生も毎日、違っているので有利である。これが支部の道場になると、指導の方は基本的に一人なので、事情は多少違うかもしれない。

だが、学んでいくべく師範・先輩が絞られてくれば、これと決めた先人から少しでも多く学び、吸収することである。技や動作や姿形はもちろんであるが、心も学ばなければならないだろう。その先人の修行の目標、哲学、人生観等を教えてもらったり、感じ取っていくのである。

そして、その先人の技が何故このようにすばらしい技になったか、その心を分るようにならなければならないだろう。これは、実際に見たり、話したり、接触しないと、難しいものである。後進には、技や動きだけでなく、このような先人の心を伝えて行かなければならない、と考える。

それには、先人の魅力的なところだけでなく、癖や欠点と思われるところも真似するぐらいにならなければならない。自分を消して、その先人になりきるようにするのである。

40年、50年と稽古を続けて行くと、師範・先輩方が亡くなったり、道場を離れたりして、教えてくれる人がなくなってくる。しかし、そこから本格的な稽古、自分の稽古がはじまるといえよう。先人・先輩から教えてもらい、受け継いだ遺産を、再確認し、再現し、そして、可能なかぎり身につけて行く。これは、自分との闘いであり、誰も教えてくれない孤独な稽古である。

この段階で、技に個性が出てくるようだ。自分の体と心に適応した技や動きが、出るようになってくるのである。これまで生きてきた経験、学んだ事、考えた事、見た事、聞いた事等などが、技に出てくるわけである。従って、ここでの技を見ると、その人がある程度見えることになるだろう。

個性的な技の中には、先人から学んだものがあるわけだから、自分本来の“性”と、先人から受け継いだものが、合わさることになる。この合わさった技をどんどん練磨し続けていかなければならない。だが、これだけでは自分本位の小乗の合気道である。合気道は、大乗でなければならない、と考える。

大乗の稽古とは、大きくいえば、人類のため、万有万物のため、宇宙楽園完成のため、ということになるだろう。しかし、ここではもっと身近な、人類遺産の合気道のため、そして、合気道の後進・後輩のため、と考える。

後進・後輩は我々を先人・先輩として知っているだろうが、我々の前の世代である我々の先人・先輩のことは知らないだろう。是非知りたいと思っても、これだけは知ることができないのである。だから、我々世代が教え、伝えるしかない。

すなわち、我々は先人と後進の間に立つかけ橋なのである。このかけ橋が十分に働かなければ、合気道は継承が難しくなる。年を重ねていればいるほど、遠い先人の合気道を知っているわけだから、その責任は大きいものであろう。

次の後進が、その次の後進に継承するためにも、我々世代がその責任を果たさなければならない、ということになる。