【第400回】 体(からだ)で読む

合気道の思想や哲学などは、開祖がご健在中には、直接お話をお聞きすることで学んでいた。その頃、開祖のお話を聞くために、多くの高名な学者、宗教家、政治家が稽古に集まっていた。

晩年ではあったが、開祖からお話を直接伺うことができたわけである。ただ、その頃はお話がよく理解できなかったし、正座で足がしびれたり、早く稽古で体を動かしたいと思っていたので、少しでも早く終ることを祈るのに忙しく、開祖のお話を理解し、身につけようとはしなかったのである。今になると非常に残念だし、開祖にはご無礼をしたと、後悔と反省でいっぱいである。

それでも、開祖のお話は、不思議なことに耳に残っているようで、何度も繰り返しいわれたことなど、今でも耳の奥底に残っている。

開祖を直接知らない稽古人が、合気道の思想や哲学を学ぶ方法としては、それに詳しい先生や先輩から学ぶか、合気道の聖典と考えられる『武産合気』と『合気真髄』を読むことでだろう。

よい先生や先輩に巡り合えればよいが、そうでなければ『武産合気』『合気真髄』を読むしかない。しかしながら、この聖典を読んで理解するのは、容易ではないだろう。多くの合気道家は両書を所有していると思うが、最後まで読み切った人は少ないだろうし、合気道の哲学や、開祖が言わんとすることなどを理解する人はさらに少ないのではないだろうか。

合気道の修行を続けるためには、『武産合気』『合気真髄』を読み、理解し、研究することは必須であると考える。だから、どんなに難しいと思っても読まなければならないものである。

では、理解困難な書物を理解するにはどうすればよいか、ということになる。一つの方法は、何度も何度も繰り返して読むことである。昔の「読書百遍意自ずから通ず」である。一度目は何が何だか分からないだろうが、何か一つ、二つは分るもの、身に付くものがあるだろう。

二度目は、それに加えて、さらにいくつかの新しい発見があり、身に付くはずである。それを繰り返していけば、少しずつでも理解できるものが増え、理解できないモノが減っていくことになる。まあ、百遍読むつもりで読み続けることである。

しかし、この読み方は、かつての寺子屋の読み方であり、学者先生の読み方で、この聖典を読むには限界があるのではないだろうかと思う。それは、例えば哲学の専門家や学者が『武産合気』や『合気真髄』を何度読んでも、開祖が言わんとされたことを理解することはできないというのと同じである。

『武産合気』『合気真髄』を読んで理解するための二つ目の方法は、体で読むということである。つまり、頭で読む学者先生とは違う読み方をしなければならないのである。ということは、合気道の技の練磨をしながら読まなければならない、ということになる。

読んだことを稽古で、体を通して試し、稽古で得たことを、この聖典で確認していくのである。じっと坐って読むだけでは、頭で理解できないだろうし、身に着かないはずである。合気道で、理解した、分った、というのは、それを技で示せることである。だから、体で理解しなければならないし、体で読まなければならないのである。

開祖がよくいわれていたことで、『武産合気』にも書かれているが、「肉体は黄金の釜」である。書物を読むにも、目だけで読まないで、体で読むわけである。体は文字に反応して、上がったり下がったり、螺旋を描いたり、天に昇ったり、地に降りたり、自由自在に反応するはずである。

逆に、変なものを読んだり、または見たりすれば、体は固まったり、緊張したり、などという反応をするだろう。体は嘘をつかないのである。

体で読むということは、体を響かせる、という事かも知れない。また、宇宙の響きと合一するひとつの過程なのかも知れない。体で書物を読めるようになれば、他のモノも体で読めるようになるだろう。

先ずは、稽古を一生懸命やりながら、『武産合気』『合気真髄』を繰り返し読むことをお勧めしたい。

『武産合気』『合気真髄』を読んでも、初めはそこに使われている言葉の意味が分らないかもしれない。聞いたこともない言葉が頻繁に使われているのが最大の理由である。しかし、分らない言葉を辞書を引き引き調べて、稽古で実験していくと、少しずつ分るようになってくるものだ。

しかし、分ってくると、次の試練が待っている。今度は、今まで分っていたと思っていたことが、実は全然わかっていなかった、ということがわかるのである。これが、次の難しさということになるだろう。

おもしろい事に、この聖典の理解が進むと、それだけ自分の技も変わるし、逆に技が変わると、聖典の理解も一段と進むのである。だから、両方とも止められなくなる。