【第399回】 文武両道

合気道を始めた頃には、俺は合気道をやっているんだぞ、と誇りに思っていたし、友人、知人にも偉そうにいっていたものだ。しかし、時として、合気道ってどんなものか、とか、柔道とか空手とどう違うのか、等と質問されると、答えることができなかった。

とりわけ、海外に行った時には困った。二教や四方投げを示せば分ってもらえるかも知れないと思ったが、何も知らない人に対してはあまり自信もなかったのでやらなかった。せいぜい柔道や空手との違いを言うのが精いっぱいだった。

若いころは、合気道がどういうものか、稽古の目的は何なのか、など等考えることもなく、ただひたすらに体を動かす稽古に専念していたものだ。相手をいかに倒すか、が稽古の主眼だった。おかげである程度の腕力、体力もつき、手足に筋肉がついて、肺や心臓など内臓も丈夫になった。

開祖は合気道とは何かを説明されていたが、合気道や武道を知らない人にそのまま言っても、分ってもらえるはずがなかった。そもそも自分もよく理解できていなかったのだ。例えば、合気道とは、気育、知育、徳育、常識の涵養、(後にはこれに加えて、体育)であるとか、合気道とは真善美の探求である、等という説明であったが、これをそのまま友人、知人にいっても、分らないはずである。

しかし、60歳近くなってくると、それまでの稽古に、このままでよいのかと疑問を持つようになってきた。合気道とは何か、目指すものは何か、などを知らずに、バタバタ体を動かすだけでは、虚しさを感じてくるものだ。

人の力は、年とともに必ず衰える。また、人を倒すことに意味があるのか、などと疑問を持つようになる。武道に興味のない人は、武道をやって腕っ節が強くても、自分のためにやっているのだろうし、かえって世の中を乱すのではないか、などと思っているようでもある。

そこで、真の合気道とは何か、つまり、合気道の目標、合気道を稽古する意味等などを知らなければならない、と思いはじめることになった。

合気道の面白さは、技の「武」だけではなく、思想や哲学の「文」もあり、稽古法も常に矛盾のパラドックスであることなど、表裏・陰陽などが一体となっていることだ。つまり、合気道ではイザナギとイザナミの神のように、相反するものが一体とならなければならないのである。もちろん、これが分ったのも、「文」のお陰である。

その典型的なことの一つが、文と武の文武両道である。そして、その極致が開祖植芝盛平翁である。

合気道の稽古では、体力、気力があり、技が上手なことも必要であるが、それだけではまだ半分・反面である。ここに、「文」がつかなければならない。これが、試合に勝つことを主眼に置く柔道、空手などと違うところであろう。

武だけをやっていると、やがて行き詰ってくるのではないだろうか。初心者のうちは、ただ体を動かしているだけで、体がほぐれ、気持ちもよくなるので、稽古に満足できるだろう。だが、技の形も覚え、力がついてくると、それでは満足できなくなるはずである。

武だけの稽古では、あるところで目標を失ってしまうことになるだろう。それを補ってくれるのが、「文」であるはずだ。「文」によって、今まで己がやってきたことの反省や、修正、追加・補充をすることができるのである。

そうすると、自分のやっている武も説明できるし、理論化できるようになるだろう。また、理論立てしたことを、「武」で実践することもできるのである。

やったことは説明できなければならないし、いったことは技でできなければならない。理論化と実践、実践の理論化である。

この「武」「文」という異質のものが表裏一体となっていけば、宇宙の営みの法則に従って、果てしなく進んでいくはずである。これが、合気道での文武両道ということになると考える。