【第399回】 念

開祖は、合気道は宇宙の法則に合した技を練磨するが、それには正しい念がなければならないし、念で正しい稽古を積まなくてはならない、と『合気真髄』(第7章:身心統一に専念し、ひびきの土台を養成)でいわれている。

しかし、「念」とは何か、開祖はここで「念」をどのような意味で使われているのか、確認しなければならないだろう。『大辞林』によれば、いろいろな意味があるのだが、その中に「心の中で一定の対象に精神を集中させること」とあるので、これを取ることにする。

そうすると、念の正しい稽古のために、何かの対象に精神を集中することということになるだろう。次には、その対象が何か、を考えなければならない。

開祖は、『合気真髄』の中で、「念」についてもかなりくわしく説明しておられる。それによれば、

などである。

この定義から、念とは我慾に結ぶものではない、止まることなく進まなければならない、身心を統一する、目の前のものや形ではなく、宇宙の法則に結ばなければならない、五体から宇宙に結ぶ、宇宙とは争わない、などということがわかる。

これらの定義の念の対象に精神を集中して稽古するわけであるが、では、その対象は、具体的に何かということになる。最終的には対象は一つになるはずだが、それまでの過程においては、人により、また、その人の上達程度により、変わるものと考える。なぜならば、上述のように、念は止まることなく進むからである。

例えば、初心者の頃の念の対象は、相手を倒すこと、技を効かせること、などであろう。そのためには、腕力、気力、体力をつけ、体と内臓器官をつくることに精神を集中することになろう。これは我慾に結ぶものであるから邪道であるのだが、これもまた必要な稽古ではある。

次には、宇宙の営みに則った法則を見つけ、それを身心に取り入れていくことになる。相手は敵でも競争相手でもなく、自分の分身となり、協力者へと変わってくる。この念は、前述の定義「身心を統一する。目の前のものや形ではなく、宇宙の法則に結ばなければならない。五体から宇宙に結ぶ。宇宙とは争わない。」に合致しているので、邪道ではないはずである。

その次は、よくは分らないが、宇宙との結びを念じて稽古を励むことになるのではないだろうか、と考える。

開祖は、そのために念には念の研磨が必要であるから「大いにまず自己の心を練り、念の活力を研ぎ、身心統一に専心」しなければならない、といわれる。そして、この念の研磨によって、宇宙と結ぶための「ひびきの土台」の養成をしなければならない、というのである。

まだまだ先が長いが、正しい念で、念の研磨をしながら、念の正しい稽古をしていくしかないだろう。