【第396回】 発見・発表の喜び

人は口を利かずにずっと黙っていることはできないだろう。また、そうしたくはないはずである。それは、人には口があって、言葉が出る機能を持っているからであろう。言葉が口から出ない人でも、手話や筆記で自分の思いを他人に伝えようとする。

うちの女房などは、1時間も口をきいてはいけないということになると、おそらく口がうずうずして、我慢できずに狂ってしまうだろう。

私はどちらかといえば無口な方で聞き役であり、話すのはあまり好きではないが、それでも話したくなったり、説明したくなったりすることはあるが、日常的な事や政治・経済等に関しては女房と話すことになり、それでだいたい済んでしまう。これが、政治家や政治に携わっていれば、関係団体や関係者と政治の事を話すだろうし、経済人も主に経済について話すだろう。

私の場合、話したくなるのは、主に合気道の修行での発見や新しい説である。毎日、修行を続けていると、発見がある。発見があれば、うれしいものである。発見の喜びがあればそれでよいはずだが、時として自分の胸の内に止めて置くだけでは収まらなくなる。その時、発見や新しい説を誰かに話したくなるのである。

人は発見したものを、だれかに話さなければならない、と思う性があるのではないだろうか。これは私だけではなく、科学者などもその典型である。これは、宇宙の意志であって、宇宙の生成化育に役立つためである。もし、発見したものをすべての発見者が胸の内に秘めて、外に出さないとしたら、人類の文明はこのように進化しなかったし、宇宙の生成化育も遅々として進まないはずである。

また、人は話に他人が耳を傾けてくれることに喜びを感じるようだし、また、それを期待するようだ。自分の気がついた面白い「発見」や、誰かに聞かせたいと願っていた新しい説をしゃべる機会に恵まれる、という快感に期待するのではないだろうか。

さらに、その発見や新しい説に共感してもらえれば、もっとうれしいだろう。合気道の道場には、仲間がいる。仲間は、発見や新説の話をよく聞いてくれる。それに共感するかどうかは保証の限りでないが、話したり、発表する機会があるのは有難い。これは喜びであるだけではなく、次の発見や新説のための土台となるのである。逆に言えば、このような場がなければ、次のステップに進むのは難しいということである。

こんなことのために、人は話をしたくなるのではないだろうか。