【第394回】 ひびき

合気道の修行の目標は宇宙との同化、宇宙との一体化であり、宇宙と同化し、宇宙と共に宇宙天国建設の生成化育のお手伝いをしていくのである、と合気道の創始者、植芝盛平翁はいわれている。

しかしながら、宇宙との同化とはどのようなことなのか、また、どうすれば宇宙との同化ができるようになるのか、等など難しいかぎりである。もしかすると、開祖以外の人には不可能なのかもしれないが、開祖の言葉と期待にお応えすべく、挑戦していかなければならないと考える。

宇宙に同化するという目標に一度にたどり着くことなど、できるわけがない。だから、一歩一歩地道に目標に向かわなければならないだろう。稽古で得たもの、道場の外で学んだこと、それまで経験したことや考えたことなどを活用、統合して、宇宙との同化とはどういうことなのか、どうすればよいのか、を研究していくしかないと考える。

まず、宇宙と人と同化する、一体化する、ということであるが、これは合気道でいう「結ぶ」ということになるであろう。そして、その「結び」は、「ひびき」であるはずである。「ひびき」を開祖は、霊波、波動とも言われている。

科学の世界では、ものが見えたり聞こえたりするのは波動によるものであるとし、また、物質というものはすべて波としての性質をあわせ持っていて、すべての物質はひとつひとつが固有の波動を発している、と説明されている。

つまり、見えるものも、見えないものも、また、近いものも、遠くにあるものも、波動を発しており、ひびいていることになる。

よく注意して見ると、ひびき(波動)は身の周り、自然、宇宙などで感じられることがわかるだろう。例えば、こわい先生の前に立ったときにはピリピリする厳しいひびき、自然の中に入ったときにはリラックスするようなひびき、家族といるときには気持ちがやすらぐひびき、太陽や空を見る時には神秘さや壮大さを感じるひびき、等などである。

見えることも、聞こえることも、「ひびき」であるが、宇宙と同化するための「ひびき」とは、目にも見えない、耳にも聞こえないような「ひびき」であろう。自然の草花に感動したり、愛おしく思ったり、夜空の月や星に感激したり、神秘を感じたり、太陽を見て、膨大なエネルギーを万有万物に公平に与えてくれる愛に感激するのは、その見えない、聞こえない「ひびき」であろうと思う。

今から思うと、開祖がご健在だったころは、無意識の内に「ひびき」の稽古をさせて頂いていたように思える。例えば、旧本部道場で我々が稽古している時に、大先生(開祖)が突然、道場に入ってこられ、技をちょっと示されたり、お話をされることが度々あった。その時には、大先生が道場に足を入れられる瞬間に、稽古人は稽古を中断して正座しなければならないことになっていた。

もし気がつかずに稽古を続けていると、「年寄りを大事にしない」というお説教が始まってしまう。それ故、大先生のお姿が入口に見えたら、見たものが手を叩いて、他の稽古人と師範に知らせるのが常だった。私も大先生に気がついて、何度も手をたたいて知らせたものだ。今思い出すと、くんずほぐれつの稽古に集中している時に、大先生が来られるのがよく分ったものだと、ふしぎに思う。

その時は相手との稽古に集中していたのであるから、入口を見ていたわけではない。気付かせてくれたのは何かというと「ひびき」、すなわち大先生からの波動であったに違いない。大先生が来られたことに気がつかないというのは、大先生の「ひびき」を感じなかったことになる。そのため、「まだまだ未熟じゃ」とお目玉を食うことになったのではないだろうか。

大先生が道場に立たれると、それだけで道場の雰囲気が変わり、緊張が張り詰めたものだった。金縛りにあったかのように身動きができず、身動きしてはいけないような気持ちになった。それは、厳しい「ひびき」だった。しかし、女性や子供にはいつもやさしかった。そのときには、やさしい「波動」が発せられていたのだろう。

本部道場でもうひとり、厳しい「波動」を発動されていた先生がいらした。故有川定輝師範である。この先生の稽古時間ほど、道場の空気が張り詰めることはなかったし、先生の前に立つと緊張し、身動きが自由に取れなくなったものだ。しかし、今は師範に感謝している。いろいろあるが、その一つにこの「ひびき」がある。

「ひびき」は感得できて、そして、同調するもののようである。今では、大先生や有川師範、その他の先生や先輩から感得したはずの「ひびき」で技を使おうとしている訳だが、例えば有川師範の「ひびき」でやろうとすると、有川師範のその時の気持ちが分るようであるし、師範が一緒にやってくださっているようにも思える。

「ひびき」を感得し、同調するということは、自分もその「ひびき」をもっており、その「ひびき」を発動できる、ということだろう。開祖や有川師範の「ひびき」は、そこにある人たちが潜在的に持っている「ひびき」を呼び起こし、身につけさせて下さったのではないかと考える。そして、有川師範の「ひびき」をはじめ、これまでの先生や先人の「ひびき」を基にして、それらの「ひびき」を技の練磨で精錬し、そして、それを「天地に響かせ、つらぬくようにしなければならない」のだろう。

開祖は、技は宇宙のひびきの中に生まれるのだから、宇宙の営みの霊波のひびきをよく感得しなければならない、また「合気と申しますと小戸の神業である。こう立ったならば、空の気と真空の気を通じてくるところの宇宙のひびきをことごとく自分の鏡に写し取る。そしてそれを実践する。相手をみるのじゃない。ヒビキによって全部読み取ってしまう」と言われている。従って、稽古では相手を見ずに、「ひびき」でやっていくようにしなければならないだろう。

道場のそとでも、目に捉われることなく、ひびき、とりわけ見えないものである心のひびきで読み取っていくように、「ひびき」の修練をしていかなければならない。

合気道の稽古での基本の「ひびき」の稽古は、結びであろう。まずは、技をかける相手と結ぶために、「ひびき」を発生させることから始めなければならない。「ひびき」が弱ければ結ぶことは難しく、上への稽古が難しい。開祖は「五体のひびきの形に表れるのが『結び』である」といわれている。

稽古で相手と結ぶ、周囲の人、動植物、太陽や月等などとも「ひびき」合い、結んでいけば、いずれ宇宙とも「ひびき」合って、同化できるようになるのではないだろうか、と皮算用している。